木太南小学校の誕生

 昭和30年頃から、高松市のドーナツ化現象が進み、木太町には日増しに住宅が増え、ベッドタウン化してきた。それに伴い、木太小学校の児童数は、昭和45年には1000人に達し、昭和49年には1500人に達した。
 そこで、昭和48年頃から、マンモス化の進む木太小学校の分離・新設の話が持ち上がり、以来、市教育委員会・学校関係者・自治会などの間で協議した結果、現在の校地を選定し、多くの地権者の強力を得て、昭和50年3月に高松市立新設第三小学校(仮称)の建設が決定した。
 校区の問題も琴電長尾線以南という原則で、比較的スムーズに解決し、開校時の児童数約800人の適正規格の学校が誕生した。
 開校前の準備などについては、木太小学校の職員とPTAの連日の献身的奉仕作業は特筆に値し、また、開校直後の校庭の整備や植樹などにもPTAの方々の延べ200人にも及ぶ献身的奉仕作業などは、木太南小学校のよき伝統となり、今日にも光り輝いている。  
                                               (木太町郷土誌より抜粋)