校長室の窓から
2005年5月10日発行「けやき」より

 「国分寺中学校修学旅行団の皆様、本日のご利用、誠にありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしております」のアナウンスが機内に流れて637便は高松空港に着陸した。昨年も一昨年も、学校名をあげての、このような放送はなかった。
 修学旅行最終日の東京からの飛行機は定期便で、一般客も乗り合わせている。しかし、過去二年間、初めて飛行機に乗る多くの生徒の興奮や、無事香川に帰れる安堵感や開放感、そして好奇心も重なって機内は騒然となった。何度も気ままに席を立つ者、周囲を無視した大声で話す者、自分の座席にはいるが後部座席の方に向いてはしゃぐグループ、トイレを覗くために行列をなす者などが後を絶たないのだ。機内サービスも騒ぎの原因になる始末だ。引率教員は一般客との境の位置に座っていて、余りにひどいときは注意をするが全く"焼け石に水"で、シュンとなるのは一瞬だけ。私はひたすら(早く高松に着いてほしい)と念じるだけだった。特に昨年は空港ターミナルまでの通路で私は、客室乗務員に「十分に指導ができていなくて大変ご迷惑をおかけしました」とお詫びを述べた。「そんなことはありませんよ」と、にこやかに返してくれた慰めの言葉は、余計に心にこたえた。
 私は三日目の深夜の打ち合わせで「機内は、友だちと騒いで楽しく過ごす場所ではなくて、一人ひとりがゆったりと自分の時間を静かに過ごす憩いの場所だ」ということを指導してほしいと先生方に頼んだ。音楽・ラジオ・テレビ用のヘッドホーンや新聞・雑誌・本を置いてあるのは、「それぞれが、ひとりで静かに、隣席の人に迷惑をかけずに過ごすように」というメッセージなのだ。機内で、わずかな睡眠時間を確保できると期待している、超多忙な人たちも乗り合わせているのである。
 4月25日朝の全校集会で、新幹線乗車の素早さと、機内のマナーの良さを誉めた。教員は、「過去二年間の生徒のできが悪かった」ではなく、「今年は効果的な指導ができた。どこがよかったのか」と考えるべきだ。
 この日、一年生の学級日誌に「僕たちも三年生のように誉められる修学旅行をしたい」とあった。

2005年4月26日発行「けやき」より

 私は生徒に授業をしない。生徒に直接働きかけるのは、全校集会で講話を
したり、賞状を渡したり、学級日誌を受け取ったり等、限られた場面だけだ。だから校内を歩くときはアンテナの感度を最大にしておく。生徒の表情や動き、職員からの報告、外部からの情報が私のなすべき仕事を教えてくれる。
 私は国分寺中学校の職員の教師だ。だから職員への授業はする。職員会、校内研修会、職員朝会がそれにあたる。勉強をして資料を作成し、具体的に事例を話し、「生徒の生涯を見すえた教育をしなさい」と檄(げき)を飛ばす。ときには個別指導もする。信頼関係を築くためには、教師が生徒に嫌われることは好ましくないが、嫌われることを恐れて生徒に迎合していては、教育はできない。
 新しい年度がスタートした。担任、授業、部活動に新しい出会いが続く四月だ。溌剌とした声が校長室に聞こえてくる。この一年間を大切にしたい。


2005年3月17日発行「けやき」より

 
『「自分で作る"弁当の日"」に託した夢』という生徒・保護者向けのプリントを全校生徒に配布した。長い文章ですが、しっかりと読んで欲しい。
 今の大人たちが子育てや教育で当惑しているのは、親子や師弟の関係が崩れてきていることだ。"子どもと同じ目線に立って""みんな平等""子どもの人権尊重""個性の尊重""子どもを主体に""子どもの主体的活動"といった言葉をよく耳にする。これらはすべて正しいことだが、表面的な理解しかできていないために困った現象を招いている。街頭の男性が、「どんな父娘関係でいたいですか」と問われると多くが「友だちのような」と答えているテレビ報道があった。同じように「生徒とは友だちのような関係でいたい」という若い先生も多い。かつての「子どもの気持ちを理解しようとしない頑固おやじ」や「権力を振り回して厳しいだけの近寄りがたい先生」の対極にいたいという気持ちからだろうが、親子や師弟の関係は決して対等ではない。「主従」とも「上下」とも言わないが、厳然たる違いがある。それは具体的に、言葉づかいの中にあらわれてくるべきだと思う。

2005年3月1日発行「けやき」より

 
「チョー気持ちいい」は、昨年のアテネ五輪で金メダルを獲得した北島康介選手の言葉だ。大きな大会では実力を出し切れずに敗退する傾向が嘆かれていた、これまでの日本のアスリートたちの汚名を一挙に返上するかのような大活躍の中心人物だ。北島選手を指導してきた平井コーチは「大勢の才能ある選手の中から飛び出るのは、結局"素直さ"で、彼の素直さはケタ違いでした」と言った。自分を育ててくれようとしている人の助言や励ましを素直に聞き、実行することを積み重ねた結果が金メダルであったのだ。
 ところが思春期は、親や先生や先輩に言われたことについつい逆らいたくなる時期だ。相手が、いわゆる"目上の人たち"だから理詰めでは負けてしまうので、感情的な反発をする。これを反抗期という。
三年生はもうすぐ中学校を卒業するが、思春期は二十歳前頃まで続く。この嵐の時代をうまく乗り切ることが、これからの人生の課題だ。そのためには、肝心かなめの場面での"素直さ"が一番。そうして、自分の人生は自分で切り拓いていきなさい。卒業おめでとう。

2005年2月18日発行「けやき」より

 
寝屋川市の小学校における、17歳の少年による教職員殺傷事件の報道が続いている。16日の授業参観日、数十名の保護者に「まだまだ、もっとひどい事件も続きますよ」と私は言った。私は、少年犯罪はますます低年齢化、凶悪化し、頻発すると思っている。現代社会(学校や家庭も)が、そのような少年を生み出す実態にあることに気がつかず、改善の方向に動いていないからだ。どの少年犯罪者の親も、そんな少年に育てようとしたわけではない。しかし、結果的に、そうなるように育てたのである。
 犯罪心理学者の福島章(上智大名誉教授『子どもの脳が危ない』の著者)は、朝日新聞にこんなコメントを載せている。「学校の先生は、昔は近づきがたく尊敬の対象となる存在だったが、今は友だち感覚で心理的な距離が近い。"自分だけが理解してもらえなかった"という逆恨みの対象となりやすくなっている」
 このコメントの「先生」に「親」をあてはめてもよい。(子どもが健やかに成長しにくい社会・環境であることを、このような罪を犯して大人たちに警鐘を鳴らしている)と受けとめている。大人は連携して行動を起こすべきである。
  ※「弁当の日」は、具体的な改善策の一つですが、解説は別の機会にします。


2005年2月1日発行「けやき」より

 本屋で思春期に関する本を探していたら、3歳くらいの男の子が書棚の本を見つめながら私の方にすり寄ってきた。「ねぇ、お父さん…」と甘えるような声で、左手で私のズボンを掴み、右手で本を指差しながら「この本…」と続け、そして私を見上げた。私は、(残念でした。君のお父さんじゃないよ)と微笑みながら、その子の顔を見下ろした。
 人違いをしてしまったことに気づいた男の子の表情が見る見る険しくなった。慌てて店内を見渡すと、一言も言わずに一目散に駆け出した。そこに私と同じ色のズボンを履いた背の高い若い男性がいた。男の子はお父さんの足にしがみ付くと周りの書棚を不機嫌に蹴飛ばし始めた。
 こんな小さな子どもでもプライドがある。身内にだけ見せる、甘えた表情を他人に見せてしまった自分自身への怒りを御しかねていた。やがて抱っこしてもらった男の子は、父親の腕の中で体をくねらせながら何度も抱きついた。父親は子どもを抱きかかえたままで本を探しており、二人に会話はない。それでも男の子の表情から、傷ついたプライドが癒されていくのが見えた。男の子の想いを父親は何も知らない。恐らくこの小さな男の子の記憶にも、この出来事は残らない。でも心は育まれている。


2005年1月20日発行「けやき」より

 「弁当の日」は2回目を終えたところだ。1回目終了後のアンケートの集計が手元にある。「全部自分でできた」と答えたのは約60%で、「ほとんどしてもらった」が6%いる。残りは「家の人に手伝ってもらった」である。この結果が事実の通りであれば、40%の生徒は「自分で作る」というきまりを守らなかったことになる。それでも先生たちは、そのことを罰したり叱ったりしない。もちろんアンケート結果で点数をつけたり成績の資料にしたりもしない。弁当作りで評定(評価)をしようとしていないからだ。
 弁当作りの全工程を考えると、全く台所仕事をしてきていない生徒は、家族の援助をやむ無く受けることもあるだろう。しかし、たとえ援助をうけたとしても、大切なことは「生徒が自立しようとしている」「親が子どもを自立させようとしている」という関係である。この関係さえあれば、家族の援助は回数を重ねるごとに減っていくし、「"弁当の日"の意味は?」という私の問いの解答を見つけられる。


学校評価アンケート結果科から
 ご協力ありがとうございました。回答いただけたのは506名で、全校生徒の約69%でした。冬休みの宿題として、私一人で集計しました。項目1〜8の結果はグラフや表の通りです。無効は、無記入や○の位置が枠の中間にあったものです。特に、体育祭・国中祭に参加できなかった保護者は記入できなかったようです。また項目9の「いい授業・好きな授業」の教科名は体育(260)英語(164)理科(148)が上位の3つでした。組・名前・部活名も記入してくださった方は20%弱でした。 
2004年1月12日発行「けやき」より

 上のグラフは、生徒・保護者に書いてもらった「国中の通信簿」です。集計しながら、自分の通信簿を初めて開くときの心臓の高鳴りを感じていました。
 とってもいい点をつけてくださいました。A+Bを「よい点」と解釈すると、5項目に約90%の支持を得たことになります。あとの3項目も約80%でした。こんないい点をいただくと、私たちはもっと期待に応えなくてはと思います。国分寺中学校をよりよくするために、C・Dの批判票を謙虚に受け止めて有効に使わせていただきます。当面、次のことに取り組みます。今後ともよろしくご支援ください。
@相談しやすい態勢づくり、A情報発信の方法の工夫、B部活動の更なる充実、C教師の授業力・学級経営力アップ、D来年度は回答率も80%以上に。


2004年12月16日発行「けやき」より

 町の噂として、「国分寺中学校の校舎のガラスが23枚割られたニュースが、今年度の卒業生の高校入試に悪影響を与える」という話が聞こえてきた。「そういう時代が、かつてあったかも知れませんが、今回は全く心配する必要はありません」と私が断言します。
 ただし、学校全体が荒れてしまっていたら別です。授業を受けない生徒が群れになってタバコを吸い、唾を吐き、菓子を食べ、指導する教師との激しい対立を繰り返したり、授業中に教師の指導を無視して騒ぎ続ける生徒がいたりすれば、教師はその対応に疲弊し、授業レベルが下がります。学力が低下すれば他校との競争に負けてしまうからです。今の国分寺中学校が、そんな状況でないことは生徒も分かっているし、保護者にも理解をしていただいているつもりです。だから大事件にもかかわらず、その日から平穏な授業が行われているのです。高等学校側も、何十年も中学校からの生徒を受け入れてきた経験から、今回のガラス破損事件が合格判定の参考にする必要がないことを分かっているのです。
 それと、私はガラスを割った人と対立するつもりはありません。対話をしたくて仕方ないのです。


2004年12月6日発行「けやき」より

 「あなたのところはいいわね、数学の先生が担任で。私のところはハズレ。この一年間は体育の先生だから、さっぱり」こんな電話を同じ学校の保護者にかけている母親がいる、と県内のある校長が嘆いていた。国社数理英以外の教科の先生は失格だそうだ。この話を聞きながら、私はその場面を想像していた。その母親は何人くらいに話したのだろう。その話を聞いた親は、なんと応対したのだろう。その会話を、子どもも横で聞いているのだろうか。聞いていなくても、普段の母親の反応から(私のお母さんは、担任の○○先生のことを快く思っていない。その理由は体育の先生だからだ。)と感じ取っているのだろうな。
 問題行動があったとき「なんて馬鹿なことをするんや。親の顔が見たいわ」と、教師が生徒を叱ることがある。これは教師自らが、親を信頼していない言い方だ。生徒は(自分が叱られるのはともかく、なんで親のことを持ちだすんや)と腹を立てている。こんなとき教師は、「このことを親が知ったら悲しがるぞ」と声をかけたい。先生と同じように親も悲しいんだということを伝えたい。
 思春期の生徒たちは、特に大人の言動の二面性に敏感だ。心したい。


2004年11月12日発行「けやき」より

 「国中祭はこのレベルにまで達しました」これが、閉会式での私の言葉でした。
特にクラス対抗で競う合唱コンクールは圧巻だった。音楽の素養がない私は審査委員長として、「鳥肌の立ち具合」で採点した。はからずも、音楽の先生も含めた審査委員の採点と同じ結果になった。音程、声量、曲想、メロディ等、専門的な分析や解説はなくても、「いいものはいい」ということだ。
 全校の最優秀賞を獲得した三年七組の「花をさがす少女」が高嶺に達することができた要因に、三年生のクラス間の競い合いがあった。また、最高学年として質の高い合唱を聞かせてくれた昨年の三年生の存在があった。先輩が実力で後輩を圧倒することは大切なことだ。「どうだ。後輩たちよ。ここまで登ってきてみろ」と言わんばかりに。いい刺激も連鎖する。それを伝統という。
 国中生が、吹奏楽部・国分寺太鼓・合唱部・ピアノ・バイオリン発表・各種作品展示等で、町民文化祭中止のさびしさを吹き飛ばした。こんなボランティアもあるのだ。

2004年11月4日発行「けやき」より

 台風23号が去った次の土・日曜日に、被災家庭へのボランティアを募った。半日単位の時間帯で4ブロックを設定したら、延べ160名近い生徒が名乗りをあげてきた。
中学校では、3年生は進路懇談会を間近に控えていたし、1・2年生は新人戦のシーズンで大会や直前の練習に打ち込んでいた時期であった。それに、自宅が床上・床下浸水になった生徒も50人以上いる状況だった。窓口になった社会福祉協議会の方も、「せめて10人か20人でも。 独居老人の家庭などで手が足りないので」ということだったが、この人数に驚いておられた。
職員も9名が同行したが、生徒の奮闘振りに感心して帰ってきた。大変な汚れ仕事だったが、一言も不平を言わず黙々と手伝ったようだ。翌日、学校に自治会長から礼状が届いた。私は体育館朝会で全校生徒にそれを読んで聞かせた。そのあと、お礼の電話をかけてくださった方もある。
 町文化祭は諸般の事情から中止になりましたが、国中祭は開催します。今度は、明るく、元気で、美しい歌声で町民を元気づけるというボランティアに挑戦します。乞う、ご期待。

2004年10月25日発行「けやき」より

 台風23号が、国分寺町に大きな爪跡を残して通過した。被害の大きさは、復旧作業が進むに従って大きくなっていくことだろう。国分寺町は四方を山に囲まれた盆地状地形で、本津川とて大きな流域面積のある河川ではない。国分寺町の災害の歴史をみても、少しは洪水被害の記録があるが、今回ほどではなかったと思われる。国分寺中学校にとっても「まさか」の連続で、水位がピークに達していた数時間は川の中に建つ校舎であった。二度とあって欲しくない災害だったが、近年の異常気象は、「異常」の意味合いを薄くしつつあることを心する必要がある。
 今後は、台風接近のニュースに、今回のような事態を想定し対応する構えがついた。被害は大きかったが学んだことも大きい。生徒の成長も同じことが言える。復旧作業に係わりながら、乗り越えた苦難の数だけ強さは身に付いていく。人的被害が無かったことを幸いとしたい。


2004年10月5日発行「けやき」より

 「子どもの喧嘩(ケンカ)に親が出る」という諺(ことわざ)がある。これは大人の余計な行動を笑い、戒めている。諺は、先人の叡智を分かりやすく表現し、時代を越えて伝承してきた民族の財産と言える。
 さて、この諺の智恵を、発達心理学から補足してみる。小さな子どもは大人以上に自己中心的である。子どもが悪いのではなく、そういう時期を経て、自分自身を客観的に見つめる力を付けていくのだ。だから、子どもの喧嘩の原因を究明するのは、論理的に考えようとする大人にはとても難しい。小さな子どもは、大人の考える「仲直り」というステップがなくても、また一緒に遊び始めることが多い。この繰り返しが、子どもにコミュニケーション能力を育む。そして多くの友だちの中から「自分の友だち」を決めていく。共に過ごす時間が苦痛でしかない子とは、友だちにならなければいい。
 子どもが喧嘩をしそうになると大人が止め、喧嘩していると大人が止め、大人の指導で仲直りをしていると、小さな揉め事の処理も自分ではできなくなってしまう。この諺は、子どもが成長する場面を大切にしなさいとも言っているのだ。そして思春期がやってくる。
 個々の生徒が小学校時代に、喧嘩に対してどのような力をつけているのか、私たちは手探り状態にある。取り返しのつかないことにならないよう最善を尽しながら、コミュニケーション能力も育てたい。


2004年9月21日発行「けやき」より

 全国各地で虐待死など、痛ましい事件が次々と起きている。枚挙(まいきょ)に遑(いとま)が無いが、多くは家庭の崩壊が子どもの不幸を招いているケースだ。家庭の崩壊は、父母の離婚や家族間の不和や断絶という現象から深刻化する。売春が援助交際、離婚がバツイチ、将来設計や展望、育児の心構えや能力がないままの「できちゃった婚」など、大切な問題を安易な表現にしながら家族の軽視が進んでいる。
 19歳の次男が父親を刺し殺して、家に火をつけた事件は、両親と2人の男子の4人家族であった。5ヶ月前に23歳の長男が弟を刺し殺そうとして、未遂に終わっていた家族だ。その裁判で父親は、長男の刑を軽減してもらう証言をした。次男はこのことが許せなかった。(僕を殺そうとした兄をかばうということは、僕は殺されてもよかった存在なのか、僕はあんな兄よりも可愛くないのか)。
 大きな、無条件・無償の愛に包まれるべき家族が、愛情が伝わらない、言葉が通じない状況になってきている。「学校」は、「社会」と「家庭」の中間に位置しながらも、すべての生徒を「気にかけている」教員の集団でなければならない。

2004年9月3日発行「けやき」より

 「水泳は団体種目だ。」これは私の恩師の言葉だ。恩師は、前回・前々回の選手選考会で紛糾していた頃で、「○○選手をオリンピック選手から外したのは正しい。」と続けた。水泳は、リレー種目はともかく、泳法・レース・コースごとに、世界共通の「時間」というモノサシで速さを競う個人種目だと思っていた私は、(水泳専門の恩師特有の感覚)と感じていた。
 アテネオリンピックに向けて、合宿中に貴重な練習時間を割いて応援練習を繰り返す水泳選手のテレビ報道を見、「今回の水泳陣のテーマは"和"です」のコーチの言葉を聞いた時、不思議な期待を抱いた。
 結果は、日本国民の期待を遥かに上回るメダルラッシュだった。多くの選手が、「同僚のため、スタッフのために泳いだ。○○選手に続けと思った。」と応えた。奇跡としか言いようの無いメダルもあった。応援し応援される内に、個人の努力だけでは獲得できないレベルの力を発揮できるようになっていたのだ。
 「高校入試も団体種目だ。」と始業式で私は訴えた。同じ高校を受験する国中生徒はライバルではなく、共に合格する仲間だ。支え支えられて、「自分だけ」では越えられない壁を越えていく団体種目だ。

2004年8月4日発行「けやき」より

 郡総体と県総体が終わった。この二つの大会で部活動が終了した生徒は、中学生時代の最高の節目を過ぎたことになる。敗れた瞬間に「終わった」と、立っている気力も失せた生徒も多かったに違いない。試合後に泣いている生徒に掛ける言葉を私は知らない。
「賭けるものがある限り青春!」は、某保険会社のキャッチコピーだが、何かにひたすら打ち込んでいるうちは、年齢に関係なく青春時代なのだ。大きな虚脱状態を経験した後の若者は、また新しい目標に向かって地道な努力を始める。自分の力にあった自分の道を自分で、少しずつ歩み始める。
 高校入試までに、今から自分は何を始めるのか。中学校卒業後のために、今からできることは何か。目指す山の頂が決まれば、黙々と歩み続けることだ。その頂に到達するまでに、手前にある幾つもの峰に何度も隠れて全く見えなくなるが、頂が消えたわけではない。小さな峰を征したとき、より間近に迫ったそれが新鮮な勇気を君に与えてくれる。その道のりが新しい君の青春時代だ。
 吹奏楽部と、四国・全国大会出場の柔道部・バドミントン部・ソフトボール部の健闘を祈る。



2004年7月20日発行「けやき」より

 私の前任校である滝宮小学校時代の実践記録「"弁当の日"がやってきた」(自然食通信社)出版(昨年9月)と、農林水産大臣賞の受賞(今年1月)で食育についての講演にでかけることが多くなってきた。この本を出版する時から、私は「日本を変える」と訴えてきた。講演のたび、この言葉を繰り返している。変えなければならないのは子どもではなく、子どもを取り巻く環境(大人や社会)の方だ。
 自分が勤務する学校の児童・生徒を悲しい少年事件から守るためには、学校内の取り組みだけでは不十分だ。日本社会全体が加害者を生まない子育てをしなければならない。特に乳幼児から思春期までの教育を根本的に改善する必要がある。その具体的方策のひとつが「子どもが作る"弁当の日"」だ。
 国分寺中学校の生徒も、「自分の食べる物は自分で作ることができる」状態になれば新しい何かが見えてくると思っている。夏休みは、そのいい機会だと思う。思春期は自立へのスタートラインでもある。



2004年7月7日発行「けやき」より

 校長室にいると、微かに授業中の生徒の声が聞こえてくる。心地よい声もあれば、耳障りな声もある。話している内容は全く分からないのに、心地よい声には授業に集中している安定感・安心感がある。耳障りな声の多くは授業の流れを無視した嘲(あざけ)りの音調があることが多い。そして、その後によく哄笑(こうしょう)が続く。声の大小の差ではない。大きな声が響いていても、そのクラスが気持ちを一つにして課題に取り組んでいるから、心地よく感じられるのだ。活発なクラスということになる。そうでないクラスは騒がしいクラスというわけだ。活発な声は心地いいし、騒がしい声は耳障りだ。
 生徒の皆さん。教室の中に大きな声が満ち溢れた時、どちらの状況か、ちょっと判定してみませんか。


2004年6月23日発行「けやき」より

 校内テストの集計表が各学年主任から、私の手許に届いた。「学力をつける」ことは中学校の大きな課題で、授業で学んでいることがどの程度生徒の学力として定着しているかを計ろうとしたとき貴重な情報になる。校長である私の仕事はといえば、私自身は授業をしていないから、先生たちに「学力のつく授業」をしてもらうことだ。先生は教科内の比較、教科外の比較を分析して「より分かる授業」を常に模索している。同じ先生が同じように教えて、クラスに平均点の差が出るのはなぜか。また、それが教科ごとに変わるのはなぜか。私はその分析が大好きで、学んだことは「教えることはおもしろい」ということだった。
 教えてくれる先生が好きですか。教えている生徒が好きですか。ちょっと見方を変えると自分までが変わっていくのです。「テスト」をきっかけに、先生と生徒がいい関係になることを願っています。



2004年6月4日発行「けやき」より

 体育祭の後片付けが終わって生徒たちが帰ってきた教室は、「静」と「動」の興奮状態にある。「静」はクラスマッチに敗れた挫折感やむなしさであり、「動」は勝利した歓喜と満足感である。勝利のみを結果とするのなら、優勝したクラスは努力が報われ、他のクラスは努力が報われなかったことになる。
 でも人生はまだまだ続いている。小さな勝利に酔って、大きな敗北を招くこともあれば、敗北の経験がより大きな勝利の原因になることもある。中学校時代は、真剣に取り組んで勝利したり敗北したりする経験をたっぷりしておくことだ。担任と一緒に、体育祭で疲れた体の中に、その余韻を沁みこませることだ。
 この日は、テーマのもと全力で取り組んだ生徒たちを讃える「伝説の日」で暮れた。



2004年5月20日発行「けやき」より

 調理室のガラスが2枚割られた。5月12日の朝7時頃、校内の見回りをしていた教頭が発見をした。
 春休み中、3月31日にも中庭に面した教室のガラスが計7枚割られている。朝早く部活動に来た生徒が発見をした。どちらも故意による公共物損壊で、町教育委員会の了承を得て警察に連絡をした。
 マスコミからの取材は3月の事件では一社もなかったが、今回は数社が短時間に集中してやってきた。私は「ガラスを割ることが愚かな行為であること、学校側がとても悲しがっていることを伝える記事を」と取材記者に話した。実際は、小さく事実のみ伝える報道だったようだ。学校が悲しいのは二点。一つは、ガラスを割った人が分からないので、その人の「心の闇」に対して学校は全く手立てを打てないこと。もう一つは、約十万円の学校予算が無駄に費やされたことである。
 新学期が始まった時、全校生徒に春休み中にガラスが割られたことを話したが、事件現場を見た生徒が数人だったので、印象には残っていなかったようだ。今回はかなり多くの生徒が、警察の捜査状況を見ているし、マスコミ報道があった。「これで"国分寺中学校が荒れている"なんて思われたらたまらない。国分寺中学校の生徒たちがいかに素晴らしいか、体育祭で町民に証明しよう」これが生徒と教師の合言葉。



2004年5月7日発行「けやき」より

 「みんな仲良く」が言えなくなる時期。思春期はこんな一面があります。
 大きな原因は「自我のめばえ」です。成績の順番や、部活での技量差を理解できるようになってきて、それを認めた上で「自分」を作っていかなくてはならないからです。これは多くの生徒にとって、とても辛いことです。「いくらがんばっても校内で○番に入れない」「後輩にもかなわなくて、レギュラーになれない」といった現実に向き合わねばならないのです。自分の力でどうにもならないことを、どうにもならないこととして受け入れられる強さが求められます。家族や友だち・教師が成績の順番や部活の活躍以外で長所をしっかり認めてくれていれば、「ありのまま(現実のまま)の自分」で生きていけるのです。
 ということは、一人ひとりが違う歩幅で、違う方向へ歩み始めるということです。これまでの友だち関係にも変化がでます。仲良しに見えていた二人の距離が広がってくるのです。それは、離れる時期がきたと考えるべきです。成長の過程なのです。そして、新しい友だちとの出会いの時期ともなります。
 だだし、人権を無視した差別をしたり、仲間はずれにしたりするという行為は別です。
 好きにはなれなくても、同級生・同じ部員として基本的な付き合いはできなくてはいけません。お互いがそれなりの距離を保って、お互いの人権は尊重して付き合う必要があります。
 国中でも、クラス替えがあって、新しい出会いがあり1か月が経ちました。友だち関係も大きく変化しています。成長の機会として見守っていきたいものです。


番外編 平成16年度入学式 校長式辞

 あなたたちは、体や心の発達段階でいうと思春期という時期に入ります。思春期は、漢字で「春を思う時期」と書きます。春は、心がうきうきして、楽しく、何となく、いいことがありそうな予感がします。

 野山には色とりどりの花が咲き、鳥が歌い、心地よい風がそそいでいます。生きとし生けるものの全てが、命を謳歌する季節です。でも反面、植物も動物も、自分を守る力が弱く、とっても危険な時期です。芽生えたばかりの小さな葉っぱは毛虫たちには食べやすくご馳走です。野鳥の卵も、卵から孵ったばかりの雛も、それを狙う蛇や鳥には恰好の餌なのです。

 中学生になったあなたたちは、体と心の成長のバランスが崩れて、小さな失敗を何時までも悩んだり、自分の弱さや欠点に、不安ばかりが大きくなって、将来の希望が見えなくなったりします。自分が生きている意味を見いだせなくて苦しくなります。でも、心配することはありません。あなたの周りの大人たちは、全員、思春期を乗り越えた人ばかりです。やけを起こして悪い方へ行かないよう、あなたを支えてくれるのは友だちや家族や先生たちです。

2004年2月6日発行「けやき」より

 男児(だんじ)、三日会わざれば、刮目(かつもく)して待つべし」
今は男女平等社会ですから、男児を「志を抱いた人」と考えてください。「志を抱いた人は、たった三日間会わなかっただけで、見違えるほど成長しているものだ。三日ぶりに会う時は目をこすって、胸をわくわくさせながら、再会を楽しみに待ちなさい」という意味です。あなたたちは自覚していなくても、肉体的にも精神的にも、「今日の自分」は、もう「昨日の自分」ではないのです。ぼんやりと過ごせば、レベルダウンしかねません。目標(志)を持って勉強や部活に取り組めば、一日の密度が変わります。
 私は、一日の仕事を終えて校長室の鍵を閉める時に、いつも自問しています。「今のお前は、今朝、「校長室に入ってきたお前を越えているか。」と。