小学校に三渓という名前がついたのは、明治32年(1899年)4月からである。藤川三渓のふるさとにあり、三渓のなくなった後にまで残る人徳をたたえ、立派な人物を教育しようという願いからである。
三渓小学校は,平成12年(2000年)に創立100周年を迎えた。
三谷町中原に顕彰碑がたてられている。三渓の死後、大正天皇御即位の日に正五位という勲章が国から贈られ、藤川三渓をたたえようと当時の村長、松原作次をはじめ村の有志20人がたてたものである。この横に三渓の生まれた家があった。
三渓の先祖の藤川東園は、高松藩の医者として讃岐の国に移住してきた。その後、三渓の父、三郎左衛門将監(後に藤川南凱と改名)も高松藩の医者として仕えた。このような家庭環境の中、三渓は、文化13年(1816年)11月24日、山田郡三谷村(現在の三谷町)に生まれた。
三渓は幼いころから学問の道にすぐれ、難しい漢文(中国の文章)を学んでいた。14歳の時、経史を学び、神童と言われるほど、漢文にくわしい知識をもっていた。また、学問だけでなく、体をきたえるため、武道にもはげんだといわれる。
26歳になった三渓は、長崎に行き、そこで砲術、兵術、築術、捕鯨術を学んだ。砲は鉄砲のこと、兵は兵隊のこと、築は建築のこと、捕鯨は鯨をとることである。
讃岐に帰った三渓は医者をしていたが、当時の高松藩主の兄、松平頼該(松平左近)に海防(海からの敵の攻撃に対する守り)の必要なことを報告した。三渓はこの松平頼該に最も重用され,松平頼該を助けて力をつくした三渓は、松平頼該に言って540名の農民兵を組織し、高松の「竜虎隊」をつくり隊長になった。
そして屋島の長崎の鼻に砲台をつくり「震遠砲」と名づけた。三渓はこの砲身に自作の詩を彫刻した。
江戸時代の末期に起きた、日本の身分を重んじる封建的な考えに反対する政治的運動である尊皇攘夷運動で活躍したが、高松藩は徳川家の親藩であったため、藩の考えにあわないとして、5年あまりろうごくに入れられてしまった。しゃく放された後、奥羽せいばつ軍艦として、官軍に加わり活躍した。三渓は、日本が四方を海に囲まれていたことから「海国急務説」を提言した。
三渓は、明治6年(1873年)「開洋社」という水産会社を設立し、さらに、讃岐のサトウキビからさとうをつくる技術を広めようと千葉県に開こん事業を始めたり、長崎へ勉強に行ってからずっと研究をしてきた西洋式の捕鯨技術を取り入れ、東京、大阪に水産学校を設立した。明治22年(1889年)には「捕鯨図鑑」をだすなど、日本水産界の先駆者として大活躍した。
明治24年(1891年)、三渓は病気になり73歳でなくなった。現在は青山墓地に埋葬されている。
この本は、明治22年に出版された。水産学校の教科書として書かれたようだ。鯨の図などがたくさんのっている。
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