町並みグループ
二番丁小学校 6−1高木・広田 6−3大島・岡上・岡林
1 調べようと思ったわけ
僕たち二番丁の町には,歴史的文化財がたくさんあります。特にお寺がいっぱいあります。その寺は時代を通すごとにどのような変化をしてきたのか,各時代の町並みと,どのような関係があったのか調べてみようと思いました。ぼくたちは,いっぱいある二番丁のお寺の中から弘憲寺を調べることにしました。弘憲寺は,二番丁小学校に近いし,歴史がありそうで調べたら面白いと思ったからです。弘憲寺は,元浜ノ町,今の,錦町2丁目にあります。
寺からのメッセージ@
寺は,主に町のはしの方に見られます。
これを寺町といいます。
これは,日本が戦国の世だったころのことです。
高松は,背後が海ですから攻められるなら陸地からです。
そこで町を寺で囲っておいて,攻められたらそこに兵を送りこんで戦ったのです。
寺には非常食もあったそうで,そこは万全な守備の城だったのです。
やはり生駒親正は,この讃岐の国の土台作りした人だと思いました。
2 調べて分かったこと
(1)弘 憲 寺
調べて分かったこと
弘憲寺には,高松を開いた生駒親正のお墓があって生駒さんをまつっているそうです。
これが生駒親正の墓です。 (向かって右側が親正,左側が親正の奥様の墓) |
平和塔という大きな塔は,太平洋戦争で亡くなった人の魂をしずめているそうです。なぜ弘憲寺にあるかと言うと,本当は,広島にいくはずだったけど,作った人がいつでも見に行けて広いところは弘憲寺しかなかったから弘憲寺になったからです。
あと,満濃池をなおした空海の像もあります。
空海の像の写真
この人は満濃池を直した人です。 この像は弘憲寺にあります。 探してみてくださいね。 |
あと,こんなお話もあります。
昔,力持ちの和尚さんがいたそうです。そのうわさを聞いた魔物がやってきて,800kgもある岩を寺の庭に投げ込んできてそれを見て怒った和尚さんは,その岩を投げ返したそうです。
住職さんにインタビュー
《質問》 弘憲寺をどのようにしていきたいですか。
《答え》 弘憲寺を改装したい。 また,生駒祭りを2月頃にしたいです。
《質問》 どうしてここに平和塔を建てたんですか。
《答え》 造った人がお年寄りになっても見られるようにここに建てました。それに,高松駅が近く,土地が広いので四国各地から戦争犠牲者の遺族からお骨が集まってきたのですが,お骨は100体以上取りに来る人がいませんでした。そこで,その人たちを供養するために,ここに
平和の塔が建てられました。
感想
調べに行ったら,たくさんの人がお参りに来ていたので,みんな弘憲寺を大切にしているんだと思いました。私も弘憲寺を大切にしていかなきゃと思いました。そして,平和塔のような大きなものを昔にどうやって運んだのかなと思いました。
(2)高松の今と昔
みなさんは,昔の高松のことを知っていますか?私たちは,江戸時代からの高松を調べました。
調べて分かったこと
《江戸時代》
この地図は「江戸時代」のころの高松の地図です
このころの高松は生駒親正(いこまちかまさ)が高松を造り,生駒親正が造らせた高松城を中心とした城下町と呼ばれる町でした。その高松城は周りの堀と呼ばれる水の流れている川のようなものが3つもあるめずらしい城でした。
その他に武士の家がある武家屋敷に店を置いたり適が攻め込みにくいように道をジグザグにしたり(地図の右側)しました。この頃の家は木でできており,火をかけられるとすぐに燃え広がってしまうので,町の周りに燃え広がらないように屋根が瓦(かわら)で,できたお寺をおくなど生駒親正はいろいろと工夫をして高松を造りました。
《明治・大正》
この地図は「明治(明治28年)」の頃の高松の地図です。
この頃の高松は,見ての通り田畑が多く昭和町はまだできていませんでした。
《昭和(12年)》
この地図は「昭和」の頃の地図です。
この頃,昭和町ができました。昭和のはじめにできたから【昭和町】と言います。扇町は,扇のような形だから【扇町】と言います。大的場は,名前のとおり,武士が弓の練習をする大きな的があったから【大的場】と言います。このように調べていくといろいろなことが分かってきます。
大正の地図と昭和の地図を見比べてみると,大正からは昭和町ができた以外は大きな違いはありません。
調べてみての感想
私は,江戸時代からの町並みを調べて,とても興味がわきました。今は,これだけしか分からないけど,もっともっと調べて何でも分かるようになりたいです。
3 調べや取材を通して学んだ文化財に対する思いや願い
弘憲寺の住職さん
これからのお寺は,老若男女がいつも集うお寺にしたい。生駒親正については,人々が住めないと思っていた土地に,城下町を造り人々を住まわせ商工を発展させた,まさに高松をつくった偉人である。弘憲寺への思いは,生駒親正公御夫妻の菩提寺として,生駒家のことをもっと多くの人々に知ってもらう努力をしていきたい。
江戸時代の錦町については,城下町の都市計画に当たって,寺院は特別な役割を持たされていた。すなわち,領主の住む城から見て,防衛上もっとも弱いと思われる地帯にいざという時の防御拠点として寺院を配置した。錦町近辺にお寺が多いのはそのためである。
弾正原さんからのお話を聞いて
僕たちの住んでいる高松市の歴史のプロフェッショナルの弾正原さんに話を聞きました。調べ方や,寺町のことなどいろいろなことを教えていただきました。
地域の人にアンケートしました(計30人)
・このままであってほしい(16人) 【考察】 〈問2〉初代藩主の生駒親正のことをどう思っていますか? ・知らない(9人) 【考察】 【感想】 〈問3〉弘憲寺のことをどう思っていますか? ・弘憲寺のことは知らない(10人) 【考察】 <問い4>江戸から昭和までの各町の特徴を知っていますか? ・知らない(20人) 【考察】 【感想】 |
4 これからの私たちの生き方は・・・
6−1高木
僕たちは,アンケートをして分かったことの中で,大人の期待を一身に受けていることを忘れないようにしたいです。
6−1 広田
私は,町並みと弘憲寺を調べて,住職さんの思いや願いを知りました。この住職さんの気持ちを,たくさんの人に知ってもらって,高松の人は,だれでも知っているぐらい,有名なお寺になってもらいたいです。
6−3 大島
これからは歴史的文化財を大切にしながら,このホームページに載せたことをほかの人に伝えていきたいです。
6−3 岡上
私は,この町並みグループで調べて,この二番丁には,昔のまま道が残っていたり,弘憲寺にたくさんの人がお参りしていたりして,とても大切にされているので,私もそういう価値をみんなに教えてあげたいです。
6−3 岡林
私がこの町並みグループになって調べた時,地域の人たちが私たちの話を静かに聞いてくれたりアンケートに快く(こころよく)答えてくれたりして,私たちを応援してくれました。これからも昔の町並みを調べて地域の人たちに教えてあげたいです。