高松城の造り(堀)グループ

メンバー 6−3工藤,6−3黒川

1 調べようと思ったわけ
  高松城は,古くからあるので大切にしているわけを知りたかったからです。
  特に,城の造りで堀の役目について調べました。

2 調べて分かったこと

 ○高松城は,玉藻城(たまもじょう)とも呼ばれているけど,その由来は,万葉集で柿本人麿呂(かきのもとひとまろ)が讃岐の国の枕言葉に,「玉藻よし」と呼んだことににあり,このあたりの海が「玉藻の浦」と呼ばれていた。
 ○瀬戸内の海水を外堀,中堀,内堀,に引き込んだこの城は,日本の三大水城の一つと呼ばれている。城には,本丸を中心に時計回りの方向に二の丸,三の丸,桜馬場,西の丸が配られ,三重の堀とともに堅固(けんこ)な構えとなった。
 ○現在の玉藻公園の面積は,79.587uです。昭和30年5月5日から一般に開放した。

 インタビューをして分かったこと。
 ○約400年前生駒親正という人によって造られた。
 ○高松城は,日本に,3つしかない水城。
 ○北は海。南は陸地。
 ○敵に海から入られても,陸地から入られても戦えるようになっているのですごいと思った 。

(1)歴史城主一覧表

生駒四代 (いこま4だい)
世代(せだい) 初代 2代 3代 4代
城主(じょうしゅ) 親正(ちかまさ) 一正(かずまさ) 正俊(まさとし) 高俊(たかとし)
1587年 1601年 1610年 1621年
治世 14年 8年 12年 19年
享年(きょうねん) 78歳 56歳 36歳 48歳
墓所(ぼしょ) 弘憲寺(こうけんじ) 妙心寺(みょうしんじ) 法泉寺(ほうせんじ) 竜源寺(りゅうげんじ)

高松城内の説明
(2)天守閣跡(旧玉藻廟)
 生駒氏の頃は,三層四階の天守だったけど,松平氏時代のもう9年たった(1669年)頃に,三層五階に建て替えられている。瀬戸内海にそのりっぱな姿を自慢していたそうです。明治17年(1884年)に取り壊されたけど,明治35年(1920年)に建てられたそうです。外からみると,三階なのに中から見ると4階なのですごい仕組みだなあと思いました。私たちが見に行くとすごく小さくて,本当に三層五階や,三層四階もあったのかなと思いました。 (※層というのは,中の数)
                            

(3)鞘橋
 本丸と二の丸を結んでいる一つだけの連絡橋で江戸時代中期末頃には,このような屋根付きの,橋になっていたようです。私たち的に,すごくかっこいいと思いました。雨の日でも渡れるのですごい工夫だなと思いました。 

(4)水門
 この城は,堀が海とつながっているので,潮の干満(しおのかんまん)による水位調節(すいいちょうせつ)のため,水門が設けられています。堀にはボラやチヌなど魚がいました。その水が海の水でそこから魚が流れてきたことにびっくりしました。

(5)内苑ご庭
 この庭は藩政(はんせい)時代の庭をもとに,大正5年(1916年)頃造られた。江戸時代の三尊石(さんそうせき)や重さ11トンと言われる手水鉢(てすいばち)。その中に松の木などがある。11トンもの手水鉢を使うなんてすごいと思った。

(6)桜御門跡(さくらごもんあと)
 旧文化財保護法により,国宝に指定されていたけど,昭和20年の高松空襲(くうしゅう)により焼けました。こんな大きな門が高松空襲で焼けたので,よっぽどすごかったんだなと思いました。

(7)桜の馬場
 馬の教練をしたところでかつては現在の2倍ほどの広さがあった。私はいつも遠足で行っているけど,そんなことを知らなかったのですごい所だなと思いました。

3 調べや取材を通して学んだ文化財に対する願いや,思い。
 
(1) 弘憲寺の住職さん

 お忙しいのに私たちのために,すごくていねいに分かりやすく教えていただきました。
 生駒親正は,初めは引田町に引田城を建てられましたが,城が東すぎるので,今度は坂出の聖通寺山(しょうつうじさん)にお城を建てます。でも,せまいので,今のお城の位置に目をつけました。しかし,そこは人々が住めるような場所ではなかったので,工事を行い新しい町を造ったそうです。昔は堀が三重もあったのは,簡単に攻められないためです。それは,より服従(ふくじゅう)しているものは,天守閣近くに住まわせていることで分かるようです。
 三層の天守閣が内堀に囲まれてあり,内堀の中側は重臣の屋敷,中央南部に大手門があり,外堀の中側は侍屋敷(さむらいやしき)ですが,東方では,町屋となっています。西東は,侍屋敷となっていたそうです。      

 住職さんの願いや思い  
「天守閣の再現がしたい。」
「お城で生駒祭りをしたい。」                         
「高松城や生駒様のことを多くの人に知ってもらいたい。」などとおっしゃっていました。 

(2) 弾正原さん
 みんなが分かるように資料を使って教えていただいたので,参考にして進めることができました。とても分かりやすかったです。
 堀をどうして造ったかは,城を造るとどうしても敵が来る。だから,敵に見つからないように逃げるために堀を造ったそうです。そこを水任流の泳ぎ方で泳ぐそうです。地域の文化財(高松城)を大切にしたい気持ちが伝わりました。

(3)地域の人にアンケートをしました(計14人)

 (問1)このお城が持つ特徴は?
  海の水を城の堀へ使っていること(9人)
  天守閣がなく寂しい(さびしい)(3人)
  周りに堀がある(1人)
  周りが海(1人)
  大名の屋城(1人)

 「考察・感想」
 14人の人にアンケートをとると,海の水を城の堀へ使っているという意見が9人もいてよく知っているなあと思いました。ふつうの人たちでも高松城のことをアンケートをとる時「いいですよ」と,かんたんに書いてくれたのでうれしかったです。

 (問2)いろいろなお城の建物や広場の中でどれが大切だと思いますか?
  天守閣(3人)
  桜の馬場(3人)
  櫓(やぐら)(2人)
  お城の建物(2人)
  堀(1人)
  石垣(1人)
  天守台(1人)
  お城の歴史(1人)
 「考察・感想」
 天守閣と桜の馬場が一番多く,天守閣は中に入らなくても見えるし,桜の馬場は遠足で行っているので分かったんだなあと思いました。高松城は有名な建物が多いので,アンケートをしてくださったみなさん知っているんだなあと思いました。

 (問3)このお城は,私たちに対しての願いや思いは,ありますか?
  これからも大切なお城を残してほしい(6人)
  海を汚さず!!(1人)
  お城にもっと分かりやすい説明板がほしい(1人)
  もっと大きい天守閣がほしい(1人)
  入園したときごみをおとさないように(1人)
  いろいろな展示会をしてほしい(1人)
  高松のシンボルとしてお城を整備したらいい(1人)
  なし(1人)
 「考察・感想」
  「昔からあるのでこれからも大切なお城を残してほしいです。」というのが一番多かったです。それは,みなさんに大切にされているからだと思います。私もこれからもずっとあって,高松の観光場所としてみなさんに知ってほしいです。

 (問4)昔は堀が3重もあったのを知っていますか?
  ○はい(6人)
  ○いいえ(8人)
  その理由は?
  分からない(7人)
  敵をくいとめるため(5人)
  現在残ってないから(1人)
  勉強不足(1人)
 「考察・感想」
  昔は堀が三重もあったのを知っている人がいてうれしかったです。歩いている人に聞いても,ほとんどの人が知っていたのでびっくりしました。それは,古くからあるので多くの人に知ってもらえているからだと思います。これからも,もっともっとたくさんの人に伝えていけたらいいと思います。

4 これからの私たちの生き方

6−3 黒川
 私は,お城のことを調べて1つ1つのことに意味があって,地域の人たちに愛されていることが分かりました。地域の人にパンフレットを配ったり,地域の人が見てくれるようにポスターを貼ったりして高松城を大切にしてもらいたいです

6−3 工藤
  私は,こんなに大切にされていることを知ってすごいなと思いました。これからも,もっといろいろな人に知ってもらって大切にしてもらいたいです。

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