玉藻城の歴史グループ
6−1木野戸 6−1植松 6−1網谷 6−3木村
1 調べようと思ったわけ
・自分達の周りに玉藻城があることだけ分かっていたけど,城のことはぜんぜん知らなくて城のことを知りたかったから。
・玉藻城に櫓(やぐら)があることを知らなかったけど,櫓があることが分かっておもしろそうだったので知らせようと思ったから。
2 調べて分かったこと
@生駒氏がなぜ高松を離れたか,A今,櫓(やぐら)がいくつあるか,Bどんな櫓があるか,C昔どこに何櫓があったかなど,Dなぜ,今でも天守閣が復元されていないか,E天守閣の名張図を見たら天守閣の弱点などが分かっしまうこと,F初め17櫓あったものが古くなり15櫓がつぶされ今,《うしとら櫓》と《月見櫓》の2つしかないことなどが分かりました。
(1)高松城について
月見櫓(つきみやぐら)は,新曲輪の隅櫓として延宝4年(1676年)ころに完成したと言われ,出入りする船を監視する役割を持つとともに,藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので《着見櫓(ちゃくみやぐら)》とも言われています。
総塗籠造り(そうぬりごめづくり)の三層三階,入母屋造り(いりもやづくり),本瓦茸(ほんかわらぶき)で,初層は千鳥破風,二層は唐破風と屋根の形を対象させて,また各層の白壁に上下2本の黒塗長押(くろぬりなげし)を巡(めぐ)らせて変化を持たせました。
月見櫓に連なる薬医門様の水手御門(みたらいもん)は,言わば海の大手門です。
他に櫓の役割は敵軍が船で攻めて来た時に櫓の高い所から見下ろして,敵軍が来たことを知らせるためでもありました。
この建築物は,《うしとら櫓》といいます。うしとら櫓は,もともと東之丸北東の隅(すみ)にあった櫓で,北東の方角を《うしとら》ということからこの名前がつきました。 |
この建築物は,《月見櫓(つきみやぐら)》と言い,高松城の17櫓の1つだけれど1955年に1度修理されていて,現在はこの《月見櫓》と上の《うしとら櫓》の2つしか櫓が残っていません。 |
(2)玉藻城の歴史
1587年 | 生駒雅楽頭正が讃岐に封ぜられる。 |
1588年 | 高松城の設計が始まり,沖合278メートルほどの所にあった八輪島と呼ばれた小さな島まで埋め立て,その後に約278メートルほどの平城が築かれた。海に面していたことから,三重の堀に海水を引き入れ水城とした。後に日本三大水城の一つに選ばれた |
1640年 | 生駒氏は,お家騒動のため高松を離れた(四代) |
1644年 | 人々は,飲料水に困っていた。入封して来た松平頼重は,それを知り市内の拡張だけでなく,新井戸,大井戸,亀井戸,今井戸などの水源を求めた。湧き水(わきみず)を木樋,竹菅,土菅を利用して簡易水道を作って水を供給したことは,全国的にもとても珍しいことである。 |
1670年 | 1670年から櫓や曲輪(くるわ)を作り,規模が整っていった。 |
1954年 | 高松市が1億円で高松城を譲り受ける。高松城が築かれた時は,17櫓あったものも今では,2つしか櫓が残っていない。その2つも1955年に修理され,2年の歳月をかけ完成し今の高松城となった。 |
思ったこと
昔,高松は,水がたまりにくいということが調べて分かり,多分よくそういうここがよくあったのだと思った。だけど,普通のお殿様は,農民などの手助けはしないと思うので松平様は,農民の手助けにも力を入れたことがとてもすごいことだと思った。
(3)高松城に関係する人について
生駒親正
戦国武将として織田信長,豊臣秀吉に仕え(つかえ),数々の手柄(てがら)を立てた。秀吉から讃岐国17万国を与えられたのは,親正が62才の時だったそうだ。親正は,人の心をうまくつかむ武将と言われるだけあって,農民の反乱を押さえたり前から讃岐に住んでいる武士をうまく用いたりした。また,町づくりてとして香東川の下流にある野原の庄を固めた。
信長の死後,天下分け目の関ヶ原の戦いでは,親正は孫の正俊とともに西軍「豊臣方」につき,子の一正は東軍「徳川」にいた。西軍が負けたが,一正のおかげで罪は許された。これをのち世の人は「生駒の殿様は,太閤様と権現様を天秤(てんびん)にかけた」と言ったが,こうした親正父子の知恵が讃岐国の藩主の座を守ったと言える。その後,一正に国を譲り(ゆずり),慶長8年に78才の生涯を終えた。
生駒親正・一正・正俊は,親子で組んで「西軍:豊臣方に親正と正俊」でつき,「東軍:徳川に一正」がついて,どちらが負けても助けられるので,親正親子はすごく頭が他の人より良いと言える。
3 調べや取材を通して学んだ文化財に対する思いや願い
(1)地域の人
自分達の住んでいる地域の文化財や歴史を勉強して大切にして,自分の地域の子供達に伝えていきたい。文化財についても知ってもらい後世の子供達にいろいろな人に伝えて,自分達の地域にある文化財を誇りに思い大切に保護してもらいたい。
(2)弾正原さん
今の高松城は,昔の10分の1ほどしかない上に天守閣もないので,天守閣の設計図を見つけて他の地域の人にも見てもらい,どんなに大切なものであったか知ってもらいたい。
(3)地域の人にアンケートしました(計20人)
<問1>玉藻城について知っていること(複数解答) 【考察】 <問2>玉藻城をなぜ海辺に建てたか知っていますか。 <問3>生駒親正の銅像はどこにあるのか知っていますか? ・二番丁公園(7人) ・玉藻公園(2人) ・二番丁小学校(2人) 【考察】 【感想】 <問4>文化財を守るためにどんなことをしていますか。 ・国や県,市などが指定したり残そうとしている(3人) 【考察】 【感想】 |
4 これからの私達の生き方
(1)
《6−1木野戸》
自分達が大人になったらとても大切な文化財を保護していき,未来の人達に残していきたいです。その他に,玉藻城の観光客の人達や他の地域の人達にも知ってもらい,玉藻城がどんな城かどんな歴史があるかを知ってもらいたいです。
《6−1網谷》
自分達の地域の文化財をこれからもずっと大切にしていきたいです。他には,ぼくはこれから文化財のことを考えていきたいです,思いを変えていき一つ一つの文化財を大切にしていきたいです。
《6−1植松》
自分達のまわりにある城などを大切にしていきたいです。
《6−3木村》
自分達の地域にある城などを知ってもらいたいです。