生駒,松平家グループ
6−2吉田 6−3吉田 6−3濱田 6−1岩崎
1 調べようと思った理由
二番丁小学校の門の所には,生駒親正の銅像があります。最初見た時,「何だろう?」という疑問が湧(わ)いて出てきました。そして,「なぜ今でも,
こんなに親しまれているのだろう?」ほんにのう?ということも思いました。
だから,今回疑問を解明する機会がやってきたので,高松城松平家生駒家の歴史,それに関係する人達について調べてみようと思いました。(^o^)
2 調べて分かったこと
(1)松平家について!!
松平頼重は,水戸黄門で有名な,徳川光圀の兄にあたります。頼重は,水戸藩祖徳川頼房の長男として生まれながら運命のいたずらか,次男である光圀が,水戸徳川家を継ぐことになりました。光圀自身も次男である自分が兄を差し置いて水戸藩主になったことを悔やんで自分の跡取りに頼重の子(網条)を迎えて,水戸藩主としました。一方,頼重も,光圀の子(頼常)を,高松藩主としました。以後,明治御一新になるまで養子のやり取りを繰り返しました。
自分が思ったこと!!
僕が松平家のことを調べようと思ったわけは,あの,徳川家の権力者,水戸黄門こと徳川光圀と,松平家初代藩主松平頼重の間に深い関わりがあったからです。徳川家で,将軍の次ぐらいに発言力のあった光圀と兄弟だった頼重は,すごいと思い少し興奮しました。
(2)高松城について
高松城は日本三大水城の一つです。一般的に城は山に建てた方が防御に適しているのですが,1588年(天正16年),生駒親正の「戦乱の時代は終わった」という考えから,海辺に築城されました。また,外堀,中堀,内堀の3つの堀には,瀬戸内の海水を引き込む構造となりました。
今こそは,サンポート高松の干拓事業により,内陸側になってしまいましたが,昭和の初期では,海上から高松城を眺めると,「讃州讃岐は高松さまの城が見えます波の上」という歌に相応しい光景だったといいます。また,現在の玉藻公園の面積は,8万uで,昔の城域,66万uと比べると,8分の1程度の広さとなっています。
しかし,城の中では天守と12の櫓の内,8つの櫓が戦火や老朽化等の原因で取り壊されています。そして,現存するものは,重要文化財の月見(着見)櫓,渡櫓,艮櫓,水手御門,それに,一部の石垣と,堀だけとなっています。僕は,戦争などが起こらなければ,今も色々な建物が見られたのに・・・と思うと,とても残念です。
園内とその近辺の地図です。
@ 天守閣跡(旧玉藻廟)
生駒氏の時代は三層四階の構造でしたが,松平氏の時代の1669年(寛文9年)頃に,地下も含めた三層五階に建て替えられました。しかし,1884年(明治17年),老朽化を理由に取り壊され,その跡に松平ョ重を祭った玉藻廟が1920年(明治35年)に建てられました。現在は,御神体は移され,建物だけを残しています。天守閣は僕も見てみたかったです。しかし,今はもうないのでとても残念です。
A 鞘橋(さやばし)
本丸と二の丸を結ぶ唯一(ゆいいつ)の橋で,当初は,欄干橋(らんかんばし)(手摺や柵があるだけで屋根の無い橋)でしたが,江戸時代中期末には,このような屋根付きの橋になっていたようです。下の堀には,鳥や魚が沢山居て,楽しい雰囲気でした。
B 水門
この城は堀が海とつながっているので,水位調節のための水門が設けられています。堀には迷い込んできた海の魚がいますが,釣りは禁止されています。水門を設けるなんてやっぱり水城は違うなあと思いました。
C 内苑御庭(ないえんおにわ)
この庭は藩政時代の庭を基に,1916年(大正5年)頃造られた庭で,江戸時代の三尊(仏,法,僧の三宝)石や,重さ11tといわれる手水鉢,後の昭和天皇・皇后両陛下が大正時代にお手植えになられた松等があります。ここは静かで落ち着いた雰囲気なので,松平さんはとても良い庭を造ったなあと思い感心しました。
D 月見(着見)櫓・水手御門・渡櫓
月見櫓(つきみやぐら)は1677年(延宝4年)頃に完成したと言われ,出入りする船を監視する役割を持つとともに,藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので,「着見櫓(ちゃくみやぐら)」とも言われています。きれいな建物で屋根瓦が美しいなあと思いました。
E 披雲閣(ひうんかく)
松平藩時代にも現在の場所に披雲閣と呼ばれる広大な建物があり,藩の政庁,および藩主の住居として使われていました。しかし,1872年(明治5年)に老朽化により取り壊されその後,3年の歳月と当時のお金で15万円(現在の15億円程度)の巨費を投じて,1917年(大正6年)現在の披雲閣が完成しました。現在では,貸会場として会議,茶会,華展などに利用され,市民に親しまれています。とても広く,美しいのでこんな建物に一回住んでみたいと思いました。
F 陳列館(ちんれつかん)
高松城や歴代藩主等に関する文化財や,資料,模型等を展示しています。行ってみたことは無いけど,城の模型は見てみたいと」思いました。
G 桜御門跡(さくらごもんあと)
旧文化財保護法により国宝(現在の重要文化財クラス)に指定されていましたが,昭和20年の高松空襲により焼失しました。石垣の焼け跡が見られます。本来の姿はとても立派だったそうなので,見てみたかったです。
H 桜の馬場
馬の教練をした所で,かつては今の2倍ほどの広さがありました。今も桜の木が植えられており,春には花見の人で賑わい(にぎわい)ます。僕も行きましたが春には,満開の花がとてもきれいでした。
I 艮櫓(うしとらやぐら)
艮櫓はもともと東の丸の北東の隅(現在の県民ホールの敷地内)にあった櫓で,北東の方角を丑寅と呼ぶことからこの名前があります。完成は1677年(延宝5年)と言われ,月見櫓と同時期に造られました。現在の場所には,昭和40年に2年の歳月をかけて東の丸から旧太鼓櫓跡に移築復元されました。
【昭和25年8月29日重要文化財指定】
J 旭橋・旭門
かつて,城の南側の桜の馬場の南中程(現在の南西隅)に大手門がありましたが,1671年(寛文11年)頃,三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため,これを廃して新たに東に旭橋をかけ,それを使って旭門を出入りするようになりました。
高松城を調べての感想
私は身近にある高松城にこんな深い歴史があったとは,思いもよりませんでした。また,堀はとても深くて,石垣も沢山あるので,築城するのはとても多くの苦労があったと思います。でも,その多くの苦労のお陰(かげ)で今の高松城があるので,造った当時の人々は,完成した時とても嬉しかったと思います。やはり,このような事が今も生駒親正が親しまれている一つの理由だと思います。(吉田 瑛二)
※玉藻=たまも
(3)生駒藩について
生駒氏は,元々藤原氏だった。藤原氏だった時,大和国に行っていたので生駒と名乗るようになった。
生駒親正は,豊臣秀吉が明智光秀を倒した時,豊臣軍に加勢していた。
その時の業績を賞して讃岐全国を与えられた。また,親正を小年寄(中老)に任じた。
生駒氏は,高俊が,11歳にして後を継いでしまい,あの有名な生駒騒動が生じ,出羽の国矢島の地に変わった。
代 | 名(読み仮名) |
1 | |
2 | |
3 | |
4 | |
5 | 高俊(たかとし) |
6 | 高清(たかきよ) |
7 | 親興(ちかおき) |
8 | 正親(まさちか) |
9 | 親猶(ちかなお) |
10 | 親賢(ちかたか) |
11 | 親信(ちかのぶ) |
12 | 親睦(ちかとし) |
13 | 親章(ちかあきら) |
14 | 親孝(ちかのり) |
15 | 親愛(ちかよし) |
16 | 親道(ちかみち) |
17 | 親敬(ちかゆき) |
僕は,この生駒藩を調べて,豊臣氏の朝鮮出兵には,生駒氏の関わる3回目があったことに驚きました。生駒親正が,もう戦乱は起こらないと考え,平地に城を築いたことには,何でそのような考えをするのだろうと思ったけど,実際に江戸の260年間は,全くの平和だったことを知って,生駒親正は,よくそんな未来を読むようなずば抜けた力を持ち合わせていたなと思うと同時に,その予想は素晴らしいと思いました。生駒氏は,かなり平和を願っていて温厚な性格だと思いました。せっかく築いた丸亀城を一国一城のお触れのせいで去らなければならないことが悲しかったです。
(4)高松城のまわりの風景について
桜の馬場
旧太鼓櫓(きゅうたいこやぐら)の位置.に移設されたもので元の位置は,城の東側にあった米蔵曲輪(こめぐらくるわ)の海側にありました。手前の広場は,桜の馬場と呼ばれています。
天守台
生駒時代の普請(ふしん)の石垣でしょう。野面積みに近い高石垣です。松平時代には,小倉城をモデルにした三重五層南蛮造りの天守がありました。井伊大老の次女が11代の藩主と結婚した場所です。
高松は,彦根城と姉妹城として縁組みしているそうです。
鞘橋(さやばし)と二の丸
二の丸や本丸を結ぶ鞘橋は,現存ではなく再建されたものです。板張りの床や屋根などで,通行を外から確認できない廊下橋の構造になっています。橋からは,西隣にある琴平電鉄の駅のホームが目と鼻の先です。二の丸石垣の緑に植えられた松がきれいですね。
桜御門
旧文化財保護法により,国宝に指定されていましたが,昭和20年の高松空襲により焼失しました。石垣や礎石に焼け跡が見られます。
調べて思ったこと
僕は,お城を調べて分かったことは,堀には深くて,いろいろな種類があることが分かりました。堀は,外堀,内堀,中堀の3種類があることが分かりました。天守閣は,生駒氏の頃,三層四階でしたが,松平氏時代は寛文9年頃に三層五階に立て替えられたことが分かりました。最後に,こんなに近くに,高松城があるのに,高松城の歴史を知らないと困るから,これからも調べていきたいと思いました。
3 調べや取材を通して学んだ文化財に対する思いや願い
(1)玉藻公園の事務室のおばさん
玉藻公園の事務室のおばさんは玉藻城の主な特徴や歴史等をていねいに分かりやすく教えて下さいました。教えて下さったことは,例えば,高松城は全国でも珍しい,海水を堀に引き入れた城だということや,築城したのは,生駒親正だということや,その後,松平氏が入城し,城の整備に努めたということなおです。その方の願いは,今の高松城の状態で壊さずに保って欲しいということと,天守閣を復元して欲しいということでした。僕達もその方と全く同じ願いでした。
(2)弾正原さん
高松城の天守閣は昔の設計図が無い(あるのだが見つからない)ため,造り直せないから今も無いだとか,外から見える階数と中の階数が違うことなど教えてくださいました。その上生駒氏の像が二番丁小学校にあるのは,石は風化してなくなってしまうため型を取って二番丁小学校に預けたということも教えてくださいました。弾正原さんは,生駒親正が平地に高松城を築いたことに感激されていました。
(3)地域の方にアンケートしました。(計33人)
回答 知っている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25人 <考察&感想> 回答 何もしていない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28人 考察 (問3)これからの高松城はどうあってほしいですか? 回答 昔のまま残っていてほしい・・・・・・・・・・・・・・・・・・(12人) (問4)貴方は高松城に親しみを持っていますか? 回答 持っている・・・・17人 <考察> 〈回答〉 親しみを持っていない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11人 <感想> |
4 これからの私達の生き方は・・・。
《吉田》ぼくは初代藩主松平頼重と,水戸光圀(水戸黄門)に深い関わりがあったことが,1番心に残りました。また,機会があったら,もっと深い関わりを調べたいです。
《吉田》私は,調べてみると,香川にもこんな深い昔からの伝統や歴史があったとは思いもよりませんでした。でも,玉藻城の他の建物が壊れてしまっていた事がとても残念でした。やっぱり戦争は嫌だなあ。
《濱田》自分は,香川に特有の歴史があったなんて知らずに,調べを進めていました。でも,進めているうちに歴史が浮き彫りになっていくのを感じて当時の人々は,凄い思いでやっていたんだなあと思いました。
《岩崎》ぼくは,高松に初めて来て,お城が前のところがなかったから初めて見て,凄く(すごく)立派だったんだなあと思いました。ぼくは,高松城の歴史がぜんぜん分からなかったから,またこういうような機会があれば,詳しく調べたいです。