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1866年   0歳
 6月9日,愛媛県八幡浜市に生まれる。

1878年  12歳
 父幸蔵,病気で死亡。忠八は町の雑貨店や印刷所で働く。

1880年  14歳
 薬屋をしているおじさんの家で働き,薬学の基礎を学ぶ。

1881年  15歳
 学資を得るため,10種類の凧を作って売る。
「忠八だこ」と呼ばれ,とてもよく売れたんだよ。人気だったんだね。
 
1887年  21歳
 香川県の丸亀連隊に入隊する。

1889年  23歳
 11月9日,秋の演習の帰り道,香川県仲多度郡のもみの木峠で,カラスの群れが飛ぶのを見て, 空を飛ぶ機械の発明のヒントを得る。
忠八は,カラスが飛ぶ様子をしばらく見続けていたそうだね。

1891年  25歳
 4月29日,丸亀練兵場,「カラス型模型飛行器」の実験に成功。
10mの距離を飛んだのよ。

1893年  27歳
 10月5日,「玉虫型飛行器」を完成。

1894年  28歳,1896年  30歳
 設計図をそえて,飛行機研究の採用を求める上申書を提出したが,却下される。
2度も却下されて,忠八はとてもショックだったでしょうね。

1898年  32歳
 製薬会社に入社。
飛行機をつくりたいために軍隊をやめたんだね。
食卓塩を売り出したのも忠八なんだって。

1902年  36歳
 京都府八幡町で,石油発動機付き飛行機の設計に取り組む。
女ふるさと愛媛県八幡浜と同じ地名の京都府八幡町に家を建てたんだね。

1903年  37歳
 アメリカのライト兄弟が世界初の有人飛行実験に成功する。
ライト兄弟成功を知った忠八は,製作中の飛行機をハンマーで破壊し,飛行機の研究から一切身を 引いたそうだよ。 
それほど,大きなショックだったんでしょうね。

1919年  53歳
 忠八の発見が天才的なものであることが,専門家によって証明される。

1925年  59歳
 自宅に「飛行神社」を建てる工事を始める。

1932年  66歳
 飛行神社完成。
仲南町にも分社が作られているね。
そうそう,わたしも行ってきたわよ。これがその時の写真。


1936年  70歳
 4月8日,がんのため死去。


忠八が発明したもの 

忠八だこ
さまざまな仕事をしながら,自分で考案した「忠八だこ」を売っていた。その凧はとてもよく揚がり評判になった。

忠八はおじさんの家で16歳のお正月を迎えました。男も女も晴れ着をまとって,お宮参りや羽つき,凧あげに興じています。
お宮参りから帰った忠八は,お正月の休みに,理科の勉強をしようと思いました。当時はまだ,理科とか物理というのは珍しい学問でした。忠八は,佐七おじさんが薬を調合するのを見たり,本を読んだりして覚えたのです。忠八は,この理科や物理が大好きで,「今日は,何を実験しようか。」と考えていました。
すると,外からブーンと凧のうなりが聞こえてきました。
「そうだ、たこづくりをしよう。」
そのころの忠八の凧好きは有名で,村の人たちから「凧の忠八」というあだ名をつけられていたほどです。その日の忠八は,ざぶとん大の凧を作りました。
凧ができたら忠八は広場へ出ました。風はちょうどよいくらい吹いていました。凧は気持ちよく正月の空に揚がりました。ところが、風が強く吹いてくると,くるくると回って落ちてしまいました。
「糸の付け方が、悪かったかな。」
忠八は,下の糸をほんの少し縮めました。すると前よりも安定して,風が強くても回転しないで揚がりました。
近くの子どもたちは,まだ見たことのない凧が,誰よりも高く揚がっているので,不思議そうに仰ぎ見ました。
それから忠八は,いろいろな形の凧を作りました。
丸い形の凧,扇形の凧,四角の凧,トンビ凧・・・。そのほかにも様々な形をした凧を作り,次々に空高く揚げました。
これを見た雑貨屋の主人が
「忠八さん,凧を多く作ってくれないか。そして,わしの店で売らしてくれんかの。」
と,頼んできました。佐七おじさんも,この話を聞いて喜んでくれました。
これらは皆,忠八だこと言われて多くの人たちに人気がありました。中でも,子持ち凧というのは,特に珍しがられたようです。風船の形をしていて,空高く揚がってからちょっと糸を引くと,中から小さい風船がいくつも出てきたということです。それがどんなしかけになっていたのかよく分かりませんが,工夫さえすれば今でもできそうな気がします。こうして忠八は,たこをたくさん作りました。

カラス型模型飛行器

1891年4月29日
聴診器のゴムを動力に,見事に空を飛ぶ実験に成功。動力飛行機が,日本で初めて空を飛んだ。
それは,翼の長さは45p,胴体の長さは35pのカラス型模型飛行器だ。アメリカでライト兄弟が飛行実験に成功する12年前のことだった。

1889年,11月。忠八は丸亀連隊の野外演習が終わり,琴平に向かうもみの木峠の新道を下っていました。峠の中ほどで昼食のため休憩になりました。そのとき,40〜50羽のカラスが翼を広げたまま,はばたかずに飛んできました忠八はその姿に興味を持ち,じっと観察しました。そして,空を飛ぶ機械の発明のヒントを得ました。宿舎に帰ってからも休みのたびに研究を重ねました。
やっとの思いでカラス型模型を作り上げた忠八は,作るのを見守ってくれていた寿世と一緒にどきどきしながら飛ばしに行きました。
それで,飛んだかって?
もちろん,飛びましたよ。

でも,どうして,カラス型模型と名前をつけたのでしょうか。それは,カラスが飛んでいたのを見て,ヒントを得たからです。


玉虫型飛行器

1893年10月5日
人を乗せて飛ぶ飛行機「玉虫型飛行器」の模型完成。大きさ約2mの複葉型だった。

鳥や昆虫が飛ぶのを観察した忠八。その中でも玉虫に興味を持つようになりました。なぜ,玉虫に興味を持ったのでしょうか。それは,玉虫が多くの昆虫の中でも特別な飛び方をしているからです。玉虫は,固い前羽と柔らかい後ろ羽をもっています。忠八は,玉虫のように上の翼を固定し,下の翼は,角度をかえ,方向転換ができるようしようと考えました。そして,この飛行器を玉虫型飛行器と名づけました。
玉虫型飛行器の設計図はできあがりました。しかし,どうしても4枚目の羽根プロペラを回す動力が思いつきません。カラス型飛行器の模型は,ゴムで動いたが,人間を乗せる飛行機は,ゴムで動かせるはずがないと,忠八は行き詰まりました。そこで,動力のことはあとで考えて,まず,模型を作ってみようと思いました。プロペラと車輪は人に頼んで作ってもらい,自分は胴体と翼を作り上げることにしました。忠八は,自分の研究が目の前で形になっていくのがうれしかったと思います。
そして,人間を乗せる飛行機が,ようやく,自分の目の前で完成したのです。


少年時代
小さいころ,神社で遊ぶ忠八と友達。友達はセミとり,忠八はあなほり。
どうしてあなをほっていたのでしょう。以前,あなからセミの幼虫が出てくるのを見たことがあったからです。それ以来,忠八は友達がセミとりをしているときも,あなをじっと見ていたり,ほったりしていたそうです。小さいときから,ほかの子どもたちとは目をつけるところが違う子どもだったのですね。

忠人から忠八へ
二宮家の先祖は,忠八の4代ほど前のとき浪人しました。そして,武士を辞め,八幡浜に移住し海産物問屋を始めました。忠八は忠人(ただひと)と呼ばれていましたが,商人の子らしく呼ぼうということで,忠八と名前を改めました。

鮎釣り
二宮家の先祖は武士で,伊予大洲藩のお殿様に仕えていました。
ある時,家族で鮎釣りを楽しんでいました。すると,留守中の家が火事になってしまいました。その時,お殿様から預かっていた大事な「藩旗」も焼いてしまいました。
そして,「鮎釣りから起こったことだから,鮎を食べてはいけない」という家訓ができました。
忠八が飛行機の発明で表彰されたとき,お殿様の子孫の方から,「私が許すから,どうか鮎を食べてくれ。」と許可が出たそうです。




 忠八さん,忠八さんがカラスが飛ぶ様子を見て,空を飛ぶ機械の発明のヒントを得たという話を知り,私たちはびっくりしました。
 「カラス型模型飛行器」「玉虫型飛行器」を完成させたけれど,上申書は認められず,二度とも却下されましたね。それで,忠八さんは飛行機を作りたいために,製薬会社に入社するのですね。
 「どうしてこんなに,飛行機を作ることが好きなのだろう。なぜ,ここまで熱くなれるのだろう。」と思いました。他の人からどんなことを言われようと,自分で決めたことを進んでしていく忠八さんの生き方に,私は心を打たれました。また,飛行機による事故で命を失った人のために,自宅に「飛行神社」を建てるなど,そのパイオニア精神と優しさもすばらしいなと思います。私たちも,くじけずにがんばり通していきたいです。
 これから,飛行機に乗る時には,忠八さんのことを思い出し,改めて忠八さんのことをすごいなあと思うと思います。 

平成14年3月1日

                                                                     千明,利沙,茉莉より