
菊池寛生い立ちすぺしゃる 木村くるみちゃんと安藤さとるくんと旅に出よう!
(くるみ) 菊池寛,しっとるー?。
(さとる) しっとるわそんなん。くるみちゃんやろ。
(くるみ) なんでー。
(さとる) 木村くるみやろ木村の木とくるみのくできくちゃんやろ!(意味不明)
(くるみ) さとるくんはほっといて菊地寛探しにしゅっぱーつ
(さとる) ちょっとまってよー。
1888年(明治21年)12月26日高松市七番町で父武修母カツの4男として生まれたのよ。
(さとる) へえーっ。
菊池寛は高松市の貧しい士族の家に生まれ師範学校,高中,明大,早大,一高の学業を途中で放棄し
最後に京都大学を卒業しました。
(さとる) 学校やめたりしたのかぁ〜いいなぁ〜
(くるみ) ちがう。ちがう。友達のぬすみの罪をかぶって退学したんだよ。
菊池寛は高松にあった図書館の本約2万冊を読んだと言われています。寛は国語が得意で他のは全部ダメで音楽はとても音痴でした。きみがよだけは歌えたのよ。
(くるみ) なんかさとるくんに似てるね。
(さとる) 新任の先生によくいじわるしてたってかいてる。ぼくもしているから未来はきっと菊池寛。
(くるみ) ないって。
子どもの時にはポケットにつった魚と餌を入れていました。
(くるみ) すごいやんちゃねー。
寛はスリルが楽しくて万引きもしていたらしいわ。
(さとる) わるいんだー。
高松市中央公園の東側にたっている銅像があります。それが菊池寛先生の銅像です。
(さとる) そうなのか。こんど見に行こう。
家庭は貧しくそのためちびた下駄に草履を打ち付けた物をはいていました。
(さとる) びんぼうだったのか。
寛は英語に優れていました。同級生の綾部健太郎(元国務大臣)入舟直三郎(元海軍中将)らと首席を争ったといわれているの。
(さとる) へえー。
大正5年京都大学卒業して「時事新報」の記者となりこのころ芥川龍之介久米正雄らと第三次「新思潮」復活させ戯曲「屋上の狂人」など発表しました。29歳の時には同郷の奥村包子と結婚し戯曲「父帰る」などを発表しました。
寛は,30才の時「無名の日記」を発表し「忠直郷行状記」で一躍名声を挙げ作家としての地位を得ました。小説「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」など不朽の名作となりました。
1920年32才には新聞小説の「真珠夫人」(しんじゅふじん)で成功したの。
寛は多くの作家を世に出したの。
芥川賞と直木賞をつくったのも菊池寛なのよ。
(さとる) へえー。
寛は,同じ作家で親友であった芥川龍之介と直木三十五の死をとても悲しみました。そして,この二人の名を残そうとつくったのが芥川賞と直木賞です。毎年,優秀な作品を書いた新人におくられています。
昭和23年3月6日51歳の時,寛は狭心病(きょうしんびょう)のために死去時の遺言書には
「私はさせる才分なくして文明を成し一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。」
と,述べていました。
(くるみ) 菊池 寛ってすごい人なんやね!
(さとる) そうや!ボクみたいな人や。
(くるみ) エ〜。そんなわけないやんか。
(さとる) マ〜ネ!
(くるみ) あんた,なに勉強しょったん。
(さとる) マ〜ネ!(意味不明)
これで,木村くるみちゃんと,安藤さとる君の,
「菊池寛探しの旅」を終わります。
説明してくれたのは,柳田さんでした。

<父帰る>
あらすじ
家出していた父が、20年ぶりに帰ってきます。父が家出している間、弟や妹たちを学校に通わせる
ために、兄は父のかわりに働いていました。弟や妹たちは、やっとのことで学校に通わせ、兄のおかげで無事卒業したのです。やがて、家出していた父が20年ぶりに帰ってきました。でも父をむかえてくれるのは、妹と弟や母だけでした。兄は父が帰ってくるとはげしくおこりました。
なぜなら、父は大事な時にいなかったので、すべて兄がしなければいけなかったからです。
父は、仕方なく、また家を出ていってしまうのです。
<屋上の狂人>
あらすじ
義太郎という人は、屋根の上にのぼってけしきを見るのが好きで、ほとんど毎日のぼっていました。
そして、いろんな人に「おりてこい」といわれても、なかなかおりてきませんでした。
義助という人が、二度と屋根にのぼれないようにしようとしたけど、そんなことをしても、義太郎 には、何をしてもそれぐらい、簡単にのぼれるのです。
このようなことで、義太郎は、「屋上の狂人」と名付けられました。
狂人が幸福に暮らしていれば,それを無理に直すことはない。治療をすることで,いっそう不幸にしてしまうのは馬鹿げているという考えを示しています。
<恩讐の彼方に>
あらすじ
市九郎は,主人を斬り,追はぎ強盗をして暮らしていました。しかし,自分の罪を反省した市九郎は,名を了海と改め,九州で洞門を掘る事業にとりかかります。実之助が,父のかたきであった市九郎をうつためにやってきますが,村人の願いによって敵討ちを,洞門の開通まで延期することになりました。了海と実之助は,ともに洞門を掘り始めますが,開通した時には,実之助も敵討ちの無意味をさとり,ともに手をとり合って完成を喜ぶというお話。

小学校時代の菊池家の暮らしはとても貧しくて、寛はみんなが着ているような着物を着たかったけど、母の手織の着物で我慢していたんです。また、ほしい物をあまり買ってもらえず、友達に誘われ、遊び半分による万引きをしたんです。昔の寛は、ちょっとワルだったんですね。
でもそんな寛も、ものすごく悪だったわけでもなかったんです。
中学校時代の寛は、スポーツが好きで、風呂嫌いだったため、薄汚れていたんです。水泳や、野球、庭球(テニス)や、卓球また、読書が好きで、香川県教育図書館にあった、蔵書約二万冊を読んだんです。すごいですねえ。よっぽど読書好きだったんですね。そして、入館申し込みに寛の名前が一番最初だったんです。勉強の方は、英語が得意だったんです。でも、優等生タイプの子供ではなかったんです。新しく入ってきた学校の教師を、質問政めにしていたんです。やっぱり悪なんでしょうか。でも、そんな寛も、優しいところもあるんです。学生時代のある日、卒業まであと三ヶ月前という日、親友の佐野という人から、マントを質屋に入れてくれと頼まれたんです。そして寛は、自分の名前で質屋にマントを入れたんです。そして2,3日たったある日、舎監から呼び出されるんです。そして、「君は最近マントを質入れしていないかい?」と聞かれすべての質問に正直に答えました。そしてこのマントは、佐野のマントではなく、他の人のだったのです。そして、佐野本人に聞いてみると、容疑を認めたんです。寛は、佐野が退学になると父の職が無くなるのが分かったんです。そこで寛は「よし、ぼくが罪をかぶって、佐野を救ってやろう」と考えました。そして卒業を目前にし、退学になったんです。
寛が作家の道を歩み出して、月日がたったある日、寛は、たくさんの本を読んでいました。新しい本を買って来て、なんと一晩で読んでしまい、寛は息子に「この本を古本屋に持って行って売って来てくれ。」と言いました。「こんなにいい本を売るなんてもったいない。内容覚えてるの?」と息子が聞くと、「ああ。頭の中に全部入っている。」と答えたんです。ぼくにはとうてい無理です。

(子供)百舌取り 魚釣り(ハゼ)
百舌取り
「百舌博士」と呼ばれていました。
魚釣り(ハゼ)
片方のポケットにエサを入れて片方のポケットに、魚(ハゼ)を入れていました。
(大人) 麻雀 ダンス 将棋 碁 ポーカー 競馬
ダンス 
寛のダンス好きは、有名でした。
将棋
文壇の人たちはみんな弱い。負けたときには、「菊池寛に勝った」などと自慢されるし、手柄にもならないので誰とも指しませんでした。
碁
5人や10人集まった中では負けません。
ポーカー
ちょっと自信がある。
競馬
馬主になり優勝カップももらい、「日本競馬読本」を出版しました。これは、競馬入門書ばかりでなく、競馬哲学の本でもありました。

菊池寛さん,寛さんは,偉人らしい生き方をした人ですね。偉人らしい生き方というのは,何か大きなことをしたということではなくて,他人に対する優しい気持ちや思いやりのある人こそが,本当に偉人といえるような気がします。寛さんはその大切な心もちゃんともっている人だと思います。
学生時代のマント事件で,友達の代わりに罪をかぶったことが心に残っています。また,親友の芥川龍之介や直木三十五が亡くなり,その二人をしのんで,芥川賞や直木賞を創設したことも,友達を大切にする心をもっていることの現れだと思います。
小学校時代の寛さんは,読書が大好きで,近くの図書館にある本を二万冊も読破するなど,小さいときから好きなことは,とことんする人だったのですね。また,とても貧しいくらしで,修学旅行にも参加できず,つらい思いもたくさんしたと思います。でも,そのことをバネにして,自分の夢に向かって一生懸命にがんばったんですね。
私たちも,寛さんのように,友達を大切にして,どんな困難も乗り越えていけるよう,強い心をもって,過ごしていこうと思います。
平成14年3月1日
涼子,あみ,杏奈,梨紗,智視,一也,大地,芳香,淳志 より