
![]() 井上通女の学力の評判はぐんぐんと上がってきました。 16歳のころは処女のふや深けい路など漢詩文をかくことに より周りの人からは女博士と呼ばれるようになったのです。 井上通女の評判を聞きつけた江戸の殿様は高松藩を通し 通女を領主高豊の母君養性院へ呼び寄せました。 (参勤交代)・・江戸時代の制度で各藩の殿様が3年か2年に一度江戸に行くこと 『天やはらぐ初めのとし霜ふみて永にいたくころ ほひなれば年経るに丸亀を船よそほしひてあまずのかたにおむく。 まずは難波として・・・・』 (1681年)当時は女性が西国から江戸まで行くのは少なかったうえに旅日記を書く人もあまりいなかったの。(江戸中期になると旅日記が出てくるが初期には珍しい。)」 『江戸日記』そして丸亀に帰った時にかいた『帰家日記』」 がはやってそれを期に帰ったんですって。 通女の書いた『東海紀行,江戸日記,帰家日記』にはそれぞれ和歌や漢詩があるのよ。そしてその3つの作品は『通女三日記』と呼ばれているの。」 ![]() 東海紀行には16首の和歌4首の漢詩が書かれている。また通女は丸亀から 江戸へと行くのだがその途中天竜川と言うところで病気になった。日記によると かぜだったそうだ。 江戸では『新井白石』や『宝鳩巣』などが通女のことをほめたたえ通女の名は 全国へ広まった。 通女はすごいなぁ。」 生まれた場所は今の城西小学校なんだけどそこには『井上通女』の像がたっているの。」 一口メモ井上通女と同時期に活やくした女流文学者である丸亀藩の京極伊知子。この人の代表作は『涙草』。通女の日記形式とはちがう歌物語である。伊知子は丸亀藩の殿様の家来の奥さん(今でいうと会社の重役の奥さんぐらいかな)でした。この時代,次の代の子どもがうまれないとお家断絶となり,その家の名前が無くなってしまうという決まり ![]() 通女さん,私は通女さんの生き方,短歌や漢詩の魅力,すべてに引きつけられました。すべて・・・といっても,私はまだまだ,通女さんについて知らないことがあります。例えば,江戸での9年間,そこでどんなことが起きたのかは知りません。でも,通女さんの「自分のしたいことをし,幸せになる」という生き方に私は憧れます。 「自分のしたいことをする」ということは,わがままではなく,自分の生き方をきちんと考え,生きることだと思います。私も,「したいこと」に打ち込む人生を送りたいと思います。私の「したいこと」が私の人生になり,それが私の目標にもなります。そのことをほかの誰かに笑われたとしても,私は絶対に挫折したりしません。その根性を,私は通女さんからもらいました。 私には今,「したいこと」がちゃんとあります。もし,そのことで悩んだとき,通女さんのことを思い出すことで,私は,これから何をするべきか考えることができると思います。通女さんの存在は,私の一生の支えです。永遠の目標でもあります。 平成14年3月1日 美咲より おわり |