バーチャル偉人館入り口へ




柴野栗山って どんな人?

 天文元年(1736年),栗山はわたしたちの住むこの牟礼に百姓の子として生まれました。幼名を彦輔(ひこすけ)といいました。栗山は,幼い頃から頭が良く,書もうまかったといわれています。

 栗山が13歳の時のことでした。栗山は,高松にあった後藤芝山(ごとうしざん)先生の塾へ通うことを父親に願い出ます。当時,高松藩儒官であった後藤芝山先生の塾までは,二里もありました。栗山は,往復四里の道のりを,18歳になるまで,1度も休むことなく,通い続けたといいます。

 実は,栗山の額には傷あとが残っています。この傷には次のようなエピソードがあるのです。
 芝山先生の塾でのことです。講義をきちんと聴いていなかった栗山は,問いに答えることができず,キセルで額を強く打たれてしまいます。   芝山先生は,栗山を部屋に呼び,こう言ったそうです。
 「私は,お前が問いに答えられなかったからキセルなどで打ったのではない。私は,お前の心根を打ったのだ。お前が利発なことはよく分かっている。しかし,日々の努力をおこたってはそれ以上の進歩はないぞ。何をするにおいてもこれは言えることだ。1日にして成るものなど,この世にありはせぬ。往復四里もの道を,休むことなく通い続けているお前にならば分かるはずだ。」

栗山は大人になってからも事あるごとに「この傷のおかげで今の私があるのだ。」と大事そうに額をなでては言ったそうです。

 宝暦三年(1753年),栗山は江戸の昌平校(幕府の学問所)に入ることになります。栗山はここで30歳まで儒教を学びました。栗山は学問に必要な本を買うのにお金を使い,決して生活は楽ではなかったといいます。友人たちが休む正月にも,遠くまで学問を教えに行き,いただいた礼金を学資にあてていました。また,体も丈夫な方ではなく,薬を買うくらいなら本を買うような人でしたから,昌平校の寮で寝込む日も多かったそうです。

 30歳の時,「外国の学問(儒学)ばかりやっていてもだめだ。やはり自分の生まれた日本古来の学問(国学)を学ばずして日本の学者といえるのか。これからは,どんどん異国の学問も入ってくるが,いろんな新しいものを吸収するには基本がしっかり分かっていないとだめだ。」と考え,京都の高橋図南(たかはしとなん)先生の塾で学ぶことになりました。高橋図南先生は,後藤芝山先生の恩師にあたる人でした。

 明和四年(1767年),栗山は阿波藩儒官になりました。2年後,阿波の殿様にお休みをいただいた栗山は,京都の堀川に塾を開きました。りっぱな学者として知られていた栗山の堀川塾には,塾生がたくさん集まりました。

 安永三年(1774年)の春,栗山は摂津・播磨への旅の間に学問に対する3つの心構えを見つけたのだそうです。これを進学三喩といいます。
志は遠大にして 日々これ勤むべし
初めに謹みて 正道より入るべし
小成に安んぜず 大成を期すべし

 天命七年(1787年)の秋,阿波の殿様のところへ,栗山を幕府にあげるように命が下りました。辞退を申しでましたが聞きとどけられず,幕府儒官になる決心をしました。
 翌年,老中松平定信と将軍・徳川家斉に謁見。栗山は,昌平校で学ぶ側から,教える側になったのでした。侍講(天皇・将軍などのそばで書物・学問を講じる人)となった栗山は,昌平校で群臣・学生に講義し,時には将軍に講義をすることもありました。松平定信の行った「寛政の改革」のなかで,栗山の優れた知識・研究・考え方は大いに活用され,幕府内の教育改革などで活躍しました。この中心となった柴野栗山,古賀精里,岡田寒泉の三人は,「寛政の三博士」と呼ばれます。

 文化四年(1807年)12月1日,栗山は,江戸の私宅で,72歳で亡くなりました。
 栗山が大切に読み集めた9000冊もの本は,阿波藩へと送られ,「万巻楼」というりっぱな文庫が建てられました。


栗山の生家跡に立派な記念館が建てられています。
今雪館長さんが温かく出迎えてくださいました。
栗山のことを,とてもていねいに教えてくださいました。
1階には,栗山に関係している資料がたくさん展示されていました。
栗山は学問の神様としても知られていて,お守りも売っています。受験生がたくさん買いに来るそうです。



栗山先生へ

 栗山先生,私たちは,先生を尊敬しています。
 自分が決めた道を最後までとことん進む,努力を地道に続けていくと,夢は必ずかなうという,先生の生き方をおりにふれて思い出し,見習いたいと思っています。
 また,自分の才能におぼれず,高い道をめざす先生はすばらしいとも思いました。儒学について多くを学んだ頃,「自分は日本の学者だ。自分の国のことを知らないで,何ができる。」と考え,京都に国学を学びにいくという行動に,まさに栗山先生の性格が現れていると思います。だれでも一つのことを達成すれば,満足してしまいます。私たちは,栗山先生の行動から,「自分のめざす『自分』までたどり着くまでは,満足はできない」「自分の夢をしっかりもって,その夢に向かって燃え続ける」ということを学びました。
 病気(胃腸が弱い)をこらえて,勉学に励む強い心。「あれがしたい,これがしたい」というだけでなく,それを実行していく実行力。13歳から18歳まで,塾までの二里の道を毎日かかさず歩き続けた情熱と努力。死ぬ直前まで自分の志をめざした気力。そして,「進学三喩」それは今,牟礼小学校の校訓「志は大きく,正しい道をより高く」となっています。これらの栗山先生の心をいつまでも覚えておきたいです。
 わたしたちは,栗山先生が牟礼町の偉人だということをとても誇りに思っています。

平成14年3月1日
                  牟礼小学校6年生一同