
みなさんは、シーボルトという人を知っていますか?
名前は、知っているけれど何をしたのかは、知りません。
それでは、先生が何をしたのかを答えます。何でも聞いてください。
シーボルトは、どこで生まれたのですか?
今から200年ほど前の1796年にバイエルン王国と言う所で生まれました。
バイエルン王国ってどこ?
今のドイツです。そこのヴュルッツブグル市で生まれました。シーボルトの父や祖父は、医者でした。シーボルトは、それを受けつごうと医学を学ぶために、大学に行きました。そこで外科、内科、産科(げか、ないか、さんか)などさまざまな医学の事を学びました。そして近くの町で医者になりましたが、ほかの国々や地域のことを調べたいという希望を持っていました。
ある日、オランダ陸軍の医師(いし)(お医者さん)としてつとめることができまし
た。職業は医師ですが、民族学(みんぞくがく)や博物学(はくぶつがく)(動物、植物、鉱物、などについて調べ研究する)の学者でもあったようです。
そのころ、オランダでは東アジアで貿易(ぼうえき)を進めていて、バタピア(インドネシアのジャルカッタ)が、その中心になっていました。1822年シーボルトは、このバタピアをめざしてオランダを出発しました。最初はバタピアで勤めていましたが1823年に日本に向かいました。
日本のどこ?
長崎の出島です。そこに、あったオランダ商館(しょうかん)の医師という仕事のほかに、日本とオランダの貿易をさかんにするための調査(ちょうさ)の仕事を命令されました。
こうして、シーボルトは、ほかの国々や地域のことについて研究するという希望(きぼう)をかなえました。
出島でなにをしていたの?
それは、今から説明します。1823年8月長崎に着きました。そのとき、日本は鎖国(さこく)(外国との貿易や行き来きを制限すること)をしていましたが長崎の出島だけは開国(かいこく)(外国との間の貿易や行き来きができる)をしていました。そこには西洋(せいよう)の品々を売っていたり、学問や医学(がくもん いがく)を勉強をしていた人たちが集まっていたりしました。そこでシーボルトは、長崎の町の様子や日本の人々の考え方を知りたいと思っていました。ですから、出島でオランダ人のための医師をしながら日本の研究をしていました。やがて長崎には良い医者がいることが評判になり、日本人に医学や植物学を教えることになりました。
その後、長崎奉行から許可が出て、長崎の町の中で日本人を治療をし、医学などの学問を教えるようになりました。さらに、多くの病人を助けたことで、医学者としての評判は日本各地に広がりました。
シーボルトは、日本各地を旅したんですか?
シーボルトは、長崎市民の病気を治すとともに多くの学問を日本人に教えました、シーボルトは、町中にあった鳴滝塾(なるきたじゅく) での授業のほかに生徒にはこれに加えて、日本の歴史や植物など様々な問題について研究させ、その結果を報告させていました。これによって、シーボルトは長崎の町の外に出させてもらえなかったが、生徒の作った報告書をみたり、実物を見たりして長崎の町の外の様子を知ることができました。また、出島の商館長は、4年に一度江戸に行き将軍にあいさつする事になっていました。シーボルトもこの旅に加わりました。長崎と江戸への往復の旅は、かごや船を利用しましたから、数ヶ月もかかる大旅行でした。その旅の途中で各地の医学者などと会ったり植物採取をしたりして日本のことを詳しく知ることができました。
シーボルトは、日本地図を作ったのですか。
シーボルトは、長崎と江戸との間を行き来きするとき植物採集をするだけでなく、日本の地理のことも調べました。町のどこに港があるのか、何が名産ででどのくらい人が住んでいるのかなどです。もちろん山の名前や高さ、町や港の位置なども調べましたが、外国人がこのことを調べるのは禁止されていました。しかし、シーボルトが計測するのを1部のお役人は、見ないふりをしていたそうです。旅をしながら、各地の位置をクロノメーターという器械などや気圧計で山の高さを測り、港の様子を調べていました。また、各地の学者から、書物や地図をもらっていました。
富士山の高さも門弟の二宮敬作に登山をさせ、高さを測りました。(3,494m、1828年)日本にいるときは、日本地図を作りませんでした。
じゃあ、シーボルトは、ほかにどのような方法で地図を手に入れたのですか?
各地の学者のほかに、病気の治療(ちりょう)法やヨーロッパのことを教える代わりに、日本の書物や地図を手に入れたようです。
そうした中に、伊能忠敬(いのうただたか)の先生(せんせい)、高橋至時((たかはしよしとき)の子、高橋景保(たかはしかげやす)がいました。景保は、シーボルトからそのころの世界の様子を聞き、そのかわりにいくつかの地図や書物を見せてもらいました。その時、景保がどうしても、東インドの地図や世界の様子を知りたいと本を探していました。希望を聞いたシーボルトは、伊能忠敬が作った日本地図と交換することにしました。
しかし、日本は、地図を外国に持ち出したりすることや、外国人に渡すことを禁止していました。景保は、悩みましたが、日本のためになると考え交換することにしました。
シーボルトが日本の地図を手に入れたのを幕府は知りましたか?
日本地図を手に入れてオランダに帰るとき、その船が暴風雨(ぼうふうう)で長崎(ながさき)の近(ちか)くで遭難(そうなん)してしまい、その積荷(つみに)の中(なか)から日本(にほん)地図(ちず)が見(み)つかりシーボルトは取り調べ(とりしらべ)を受(う)けることになりました。ところがシーボルトは、素早く(すばやく)地図(ちず)を写し取って(うつしとって)いました。後に許されてオランダに帰ったシーボルトは、日本の紹介する本を書きました、その中に写し取った日本地図が載っていました。
オランダに帰ってからは、どうなったんですか?
日本を追放されたのち彼が持ち帰った地理や地図に関する書類は、160種類にもなりました。その中には、蝦夷(えぞ)や樺(から)太(ふと)の地図と多くの日本各地の国絵図や、忠敬の日本全図の写しも含まれていました。帰国後シーボルトは、それらの地図をもとに(日本図)をはじめ(長崎湾の図)、(
蝦夷地地図)などたくさんの地図を発行しました。特にシーボルトの代表作(日本)と言う本の中で間宮林蔵の地図が正確であること、また、ここに紹介された(日本全図)から、伊能忠敬らの測量技術と日本地図の正確さが世界に認められました。その後1858年日本とオランダの通商(つうしょう)条約(じょうやく)が結ばれシーボルトの罪も許されたので30年ぶりに日本に訪れました。(1859年)長崎に住んでいたとき、シーボルトには「おたき」という奥さんがいました。やがて、「おたき」には「いね」という女の子が生まれました。そして、シーボルト事件が起きたのは「いね」が2歳8ヶ月の時でした。日本を去るとき彼は表におたきの、裏面には「いね」の姿を書いた小さな箱の中に2人の髪の毛を入れて持ち帰ったといいます。それほど2人の事を思っていたのでした。その「いね」の毛は、ひと目で混血(こんけつ)と分かる茶色のものであったといいます。1859年、罪がゆるされたシーボルトは、長男のアレクサンダーをつれて日本にやってきました。そのとき、シーボルトは63歳、「いね」は32歳になっていました。彼女はシーボルトの門弟の指導を受けて、長崎で産科医(さんかい)を始めていました。
シーボルトは2年7ヶ月ほどいて日本を離れ(はな)1866年に亡くなりました。