1 灌頂市(かんじょういち)の由来(ゆらい)
明治(めいじ)10年(1877)春に,西南戦争(せいなんせんそう)で亡(な)くなった人の霊(れい)を慰(なぐさ)めるために流水灌頂(かんじょう)をしたことが始まりと言われている。(灌頂市(かんじょういち)を主催(しゅさい)している高運寺(こううんじ)の話)
A かなり古い時代から山の村の人と平野の人びととの物々交換(ぶつぶつこうかん)の場所であった。
B 川で餓鬼供養(がきくよう)をする習慣があった。
C 上の2つの行事が結びつき,川市となった。
D 川島では,西南戦争(せいなんせんそう)の死者(ししゃ)の霊(れい)を慰(なぐさ)める行事が加わり盛大(せいだい)になった。
2 灌頂市(かんじょういち)のようす
春日川の灌頂市(かんじょういち)は,川下(かわしも)の「春日(かすが)」が5月18日,「元山(もとやま)」が5月21日,「川島」が5月25日となっている。市の日が川下(かわしも)から川上(かわかみ)へと移(うつ)っていくのは,供養(くよう)をして,川下(かわしも)からきれいにしていくというのであろう。
川島橋の南約100メートルの東岸の石垣(いしがき)に板塔婆(とうば)がたくさん立てかけられ,その前にかなり古い小さなお地蔵(じぞう)さんをまつる。これは,下を流れるきれいな水に洗われることになる。お参(まい)りする人は,この水を板塔婆(とうば)やお地蔵(じぞう)さんに注いで供養(くよう)する。川の中州(なかす)には,臨時(りんじ)の祭壇(さいだん)が設(もう)けられ,お坊(ぼう)さんがお経(きょう)をあげる。お参(まい)りの人は,経木(きょうぼく)に自分の家の仏(ほとけ)の戒名(かいみょう)を書いてもらいおまつりする。やがて,その経木(きょうぼく)は川に流される。
この日は,川島の人だけでなく,植田(うえた),十川(そがわ),三谷(みたに),仏生山(ぶっしょうざん)からもたくさん人が集まった。大変(たいへん)なにぎわいである。
昔(むかし)は,学校も半どん(午後が休み)になり,子どもたちは大喜(おおよろこ)びであった。忍術(にんじゅつ)の本をうまく売りつける野師(やし),物語(ものがたり)の説明(せつめい)を聞きながらのぞき穴から続き絵を見る「のぞき」,首なし人間などのいんちきな見世物(みせもの),芝居(しばい)や軽業(かるわざ)など,川原いっぱいにテントができた。これらは,川島の橋の下から北の方に伸びていた。
南の方には,農機具やみのや笠(かさ),鍬(すき)類から鎌(かま),鋸(のこぎり)にいたるまで何でも売っていた。
さらに,植木類や苗物もあった。東西の県道沿いには,食べ物の露店(ろてん)が並び,栗(くり)の形をしたあん焼き,しょうが糖(とう),飴(とう),かき氷,南京豆(なんきんまめ)など,子どものほしいものは何でも売っていた。
昭和30年代までは,川原を中心にいちが行われていたが,時代が進んで交通量が多くなり,川原のようすも変わったので広場で行うようになった。山田グランドへ移り,さらに,今のように糸岡工場の広場へ移った。卒塔婆(そとば)やお地蔵(じぞう)さんをまつる場所も山田支所(ししょ)の東側の細い流れになった。
川島の地蔵(じぞう)まつり
川島の地蔵まつりは,山田支所(やまだししょ)の南側,山田給油所(きゅうゆしょ)の西どなりにあるお地蔵(じぞう)さんのおまつりである。このお地蔵(じぞう)さんは,川島東町のヘアーサロン松本の北どなりの駐車場(ちゅうしゃじょう)の北西の隅(すみ)にあったのが今の所に移った。
川島の地蔵まつりは,8月23日となっている。このお祭りの特徴は,「だし」といって,その時代の話題(わだい)を人形などで表現することである。川島商工会(しょうこうかい)のメンバーが集まって,テーマを決め身近(みぢか)にある材料(ざいりょう)を使って作る。
商店街(しょうてんがい)の空間をうまく利用し,照明(しょうめい)にあざやかに浮(う)き出されたあちらこちらの「だし」を話題(わだい)にしたりしながら,町はおおぜいの人でおそくまでにぎわっている。
