大島青松園ホームページ

@ 入所者の寮  
入所者の住む建物。センター,軽症寮共に独身寮と夫婦寮に分かれており,全部で 4ブロックになっている。センターに住む人は,約160名。介護員が生活を助けている。軽症寮に住む約110名の人は,食事を届けてもらう以外は,自立して生活している。
センター 軽症者寮

A治療棟
外来病院。一般診察室,基本治療科(ハンセン病の治療),外科,整形外科,眼科,内科,歯科,皮膚科,耳鼻咽喉科,保健科, 薬局,レントゲン室,手術室,中央材料室,臨床検査室がある。
ここでは,医師・看護婦・薬剤師・検査技師等が働いている。 耳鼻科・婦人科については,外部から医師が診察に来る。
小児科・産婦人科が無いのは、昔、ハンセン病が遺伝すると誤解されていたため、子どもを生むことができなかったからである。

B 病棟
  不自由さが増した人や,骨折や肺炎などの治療のため寮では生活できない入所者が入院している。看護婦が三交代制で看護している。
C リハビリテーション棟
  手や足の不自由な人が歩行訓練・起立訓練などのリハビリや,関節や筋肉を丈夫にする電気治療・血行をよくするパラフィン治療などをしている。理学療法士が指導をしている。
D 給食棟
  入所者の食事を作っている。栄養士・調理員が調理を行い,病棟や寮に運んでいる。
E 自治会
  入所者の会。入所者の生活をよりよいものにするための仕事をしている。
F 宗教地区  
キリスト教,カトリック教,金光教,天理教,真宗,仏立宗,真言宗,創価学会の建物がある。

G 相愛の道
島の北の山を一周できる道。昭和の初め頃,入所者の奉仕作業で作られた。
H 石仏
大正時代の終わり頃,四国八十八か所のお寺より寄贈されたもので,大島にいて四国八十八か寺巡りができるようになっ ている。
I 畑 
戦争中,食料不足の時に食料品を作るために山を開墾して作った。
今は,野菜作りが好きな人が野菜を育てている。
J 風の舞
亡くなった人を火葬し納骨した後の残りの骨を納めている。1992年に約千人のボランティアの協力で造られた。「せめて死後の魂は風に乗って島を離れ自由に解き放たれますように」と言う願いが込められている。
K 野島公園(心月園)  
第3代園長の野島泰治先生の功績をたたえるために造られた公園。野島園長は,1933年から1969年まで36年間園長を務め,現在の青松園の基礎をつくった。
L 大島会館
娯楽センターとしての劇場。演劇や作品展,敬老会のお祝いの会などが行われる。昔は映画館としても使用された。敬老会や春と秋に行われるカラオケ大会には,庵治第二小学校の子どもたちも出演している。
M 墓標の松
源平の合戦に敗れた落ち武者を埋葬し,その上に松を植えたと言われている。この下からは人骨や刀剣,甲冑が出土した。
N 桟橋・官用船
 大島港と庵治港間(庵治便),大島港と高松港間(高松便) は官用船で結ばれている。庵治便は1日3便,高松便は1日4便 (夏季は5便)運航されている。庵治第二小学校の職員は,庵治便で通勤している。庵治第二小学校の子どもたちも,校外学習の時や家族と外出する時などに利用している。
せいしょう まつかぜ

O 盲導鈴・盲導索
○盲導鈴
目の不自由な人のための道案内。道が分かれているところや大きな建物の前にある。朝6時30分から夜9時まで音楽が流れている。全部で39か所ある。
○盲導索(もうどうさく)
目の不自由な人が自由に歩行できるようにした索。    

4 大島青松園の施設設備

大島青松園全景

○ 福祉の仕事をしているケースワーカーの話

  Aさんのお父さんの病気がハンセン病と分かると,お母さんはAさんをおいて実家に帰りました。Aさんは,病気になったお父さんといっしょに,1才で青松園に入所しました。ヨチヨチ歩きのAさんは,大部屋で多くの患者さんに可愛がられておりましたが,間もなく保育所ができ,親子はなればなれで生活しなければならなくなりました。 大島の小学校,中学校を卒業し,都会に出て高校を卒業して立派な社会人になったAさんにとって,大島は,悲しい,辛い思い出がいっぱいつまったところでしたので,お父さんに会いに大島に帰って来ることができませんでした。死ぬ前に,もう一度子どもに会いたいというお父さんの最後の願いが通じて久しぶりにAさんは大島に帰って来ました。息子さんに会えてうれしそうなお父さんの顔を忘れられせん。
 Bさんは,15歳でハンセン病のため青松園に入所しました。Bさんを大島に残して帰らねばならないお母さんの悲しみ,そして,たった一人で島に残されたBさんの悲しみは,はかり知れないものがあったと思います。療養所の中で一生,生きて行かなければならないBさんのことを思うとお母さんはとても辛かったと思います。面会に何十回となく来られたお母さんも,年をとり,最後の面会となってしまったとき,お母さんは,Bさんの手を何度も何度もにぎられたそうです。桟橋での親子の別れは悲しみでいっぱいだったと思います。 大島の納骨堂には,大島で亡くなられた約二千人の入所者の方々のお骨が,なつかしい故郷のお父さんお母さんのお墓に帰る事もできずに眠っています。大島には,多くの入所 者と家族の,悲しい思い出がたくさんつまっています。でも,悲しみをこえて生きて来られたすばらしい人達の姿もたくさんつまっています。大島で出会えた多くの方々のことを 大切にしなければと思います。

3 大島青松園で働く人
      大島青松園では,入所者の病気の治療や,生活の介護,生活を 支える仕事をする人など多くの人が働いている。
 ○ 大島青松園で働く人の仕事と人数(1999.7.1)

医師          9人     栄養の仕事       19人
看護婦(士)    62人      福祉の仕事       13人
介護員       86人      理・美容師         3人
訓練などの仕事  4人       船員             8人
検査などの仕事 11人      作業の仕事       14人
事務の仕事    18人      洗濯・電気などの仕事  8人
保育所の先生   3人

○ ある入所者の一日の生活

  早朝5時から一日の生活が始まる。元気な人は朝のうちに畑に行く。8時の朝食を終えると,治療が必要な人は,治療棟に出かけ,目薬を入れてもらったり,傷の手当をしてもらったり,鼻や口を洗ってもらったり,リハビリ室で運動をしたりして,11時頃に部屋に帰る。 不自由な人は午前中に職員の介助で入浴し,元気な人は午後,共同浴場へ行く。12時の昼食を終えると,リハビリや楽しみのために,盲人会や百寿会,クラブ活動(ゲートボールや陶芸等)に参加したり,職員の誘導で散歩に出かけたり,畑仕事をしたり, テレビを見たりして過ごす。午後4時に早めの夕食をとり,テレビを見たり,ラジオを聞いたりして過ごし,8時には床に入る。

1 ハンセン病の療養施設「大島青松園」

 大島にある「国立療養所大島青松園」はハンセン病の療養施設である。明治40年3月に「らい予防法」ができ,ハンセン病の患者はみんな療養所に入らなければならないことになった。この大島青松園は,中国・四国8県連合の第四区療養所として,明治42年4月に発足。明治43年に,「大島療養所」とな り,16年7月,厚生省発足と共に,「国立らい療養所大島青松園」となった。「国立療養所大島青松園」となったのは,昭和21年11月である。ハンセン病の療養所は全国に15か所(国立13,私立2)ある。
 平成8年4月に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行され,大島青松園に関心を持つ人々や,訪問する人々が増えるなど大島青松園の様子は大きく変わってきている。

2 大島青松園の入所者

 多いときには740名いた入所者も,現在は約170名(2004.04現在)。50歳から100歳までの人が暮らし,平均年齢は,74.5歳である。在所年数の最も長い88歳のMさんは,15歳で入所し73年間大島青松園で生活している。             
大島青松園の正門 青松園管理棟玄関
(本校総合的な学習副読本「ふるさと大島」より)
大島青松園の紹介